一生、お仕えします その2

第2話 なにげない朝

 2年ほどで慣れた、いつもの朝。茉莉花まりかが布団の中、夢うつつでいると、部屋のドアを軽くたたく音がする。
「お嬢様、朝です。起きる時間でございます。」
 礼諒なりあきの明るく落ち着いた声に、茉莉花まりかはすっきりと目を覚ます。
 お盆に、水の入ったポットとグラスを持って、学校の制服姿の礼諒なりあきが部屋に入ってくる。茉莉花まりかが寝起きに飲む水だった。茉莉花まりかはいつものように、水がそそがれたグラスを受け取ると、ゆっくりと飲み干した。
「いつもありがとう。ただの水なのに、礼諒なりあきさんがいでくれたと思うと、なんだかおいしくて元気が出るわ。」
 そう言って、茉莉花まりかははにかんだ。礼諒なりあきはその言葉に、少しの動揺を見せる。
「いえそんな、もったいないお言葉でございます……。」
 礼諒なりあきは、自分の顔が、少し赤くなっているのではないかと気になった。だが茉莉花まりかは特に気にもせず、話を続けた。
「お仕事だからということはわかっているけど、毎日起こしてもらって、お水まで持ってきてもらうとなると、なんだか悪いわ。礼諒なりあきさんだって学校があるのに、わたしより早く起きないといけないし……。」
 学校の制服姿で自分を起こしにくる礼諒なりあきに、茉莉花まりかは申し訳なさそうに下を向いた。だがその後すぐに上を向き、礼諒なりあきの目を見て言った。
礼諒なりあきさん、もしこのお仕事がつらかったら、やめてもいいのよ。わたしには、当主を継がない選択肢はほとんどないもの……。だから代わりに礼諒なりあきさんには、自由を与えたいの。」
「お嬢様……。」
 礼諒なりあきは、茉莉花まりかの優しさと、その裏にある、あらわしようのない思いを感じ取り、少しのあいだ、言葉に詰まった。だが決心したように、口を開いた。
「いいえお嬢様、わたしは旦那様にも、執事としての素質を見出していただきましたし、このお屋敷でたいへんお世話になっております。お嬢様も、わたしに良くしてくださっていますし……。その恩義に報いるために、ずっとお仕えする気持ちでいます。」
礼諒なりあきさん……。」
 茉莉花まりかは感動したのか、瞳がやや潤んでいる。
「でもやっぱり、覚えることも多いし、仕事がいろいろあって大変じゃないかしら。吉川よしかわさんも、いつも忙しそうよ。」
 現在、執事として、父重元しげもとや、一宮いちのみや家の家業の秘書としての仕事、家のことなどを任されている吉川よしかわの仕事ぶりを思い浮かべ、茉莉花まりかは心配そうな顔をする。
「確かにいずれわたしも、吉川よしかわ様のように忙しくなるのでしょうが、今はまだ学生ということで、学業を優先させていただいています。だからそんなに長時間、仕事をしているというわけではないのです。執事としても、どちらかというと仕事というよりは、勉強段階なのでございます。」
 礼諒なりあきは、問題ない、という顔と声で説明する。すると茉莉花まりかは晴れたような顔になった。礼諒なりあきはその表情にふと、最近思っていることを口にする。
「お嬢様、この頃笑顔が増えられたような気がします……。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの突然の言葉に、はっとしたように笑顔を隠したが、またすぐに穏やかな微笑みを見せた。
「そうかしら? きっと、礼諒なりあきさんが来てくれて、救われたからだわ。」
「救われた、ですか?」
「ええ。わたしはお父様や、先代のお祖母様ばあさまとは違って、きょうだいがいないから、ずっと一人で当主になるための勉強をしていたんだもの。礼諒なりあきさんが一緒に勉強してくれることになって、どんなに心強かったことか……。」
 複雑な気持ちがこもった茉莉花まりかの言葉を、礼諒なりあきはだまって聞いていた。
「わがままかもしれないけど、これからもそばにいてくれて、勉強も一緒にしてくれるとうれしいわ。」
「いえ、お嬢様、わがままなどではありません。ずっとそばで、お嬢様にお尽くしします。」
 礼諒なりあきは深々と頭を下げる。
「ありがとう。」
 礼諒なりあきの言葉に、茉莉花まりかは満面の笑みを見せた。その表情に、礼諒なりあきは、胸の鼓動が速くなっているのを感じていた。
 少しのの後、ふと茉莉花まりかが時計のほうへ目をやると、毎日の予定の時間を少し過ぎていた。
「あ、ごめんなさい。おしゃべりが過ぎてしまって……。礼諒なりあきさんのお仕事の邪魔をしてしまったわね。次代当主失格だわ。」
「かまいません、お嬢様。心ゆくまでお話しくださっていいのです。それをお聞きするのも、わたしの仕事でございます。」
 そう言うと礼諒なりあきは、からになったグラスとポットをお盆に載せ、茉莉花まりかの部屋を後にした。
 茉莉花まりかは、部屋を出ていく礼諒なりあきの後ろ姿を見ながら、「笑顔が増えた」と言われたことについて考えていた。次代当主として、おもてでは、あまり個人的な感情や表情を表現しないようにと言われ、育てられた。だが最近は、少なくとも礼諒なりあきには指摘されるくらいに、個人的な感情が出ているのではないか、という不安を覚えた。――その個人的感情が、もっとも歓迎されないものの一つであるという不安も――。
 とはいえ今はそのことについて、じっくり考えている時間はなかった。
「お手洗いに行きましょう……。」
 茉莉花まりかはいったん、部屋を出た。
 いっぽう礼諒なりあきも、茉莉花まりかの笑顔について考えていた。屋敷に来て、茉莉花まりかと初めて対面したとき、本人には言えないが、正直に言えば、印象がいいわけではなかった。だが自分と過ごす時間が積み重なるにしたがって、少しずつ笑顔が見られるようになった気がしていた。自分が原因ではないにしても、茉莉花まりかの笑顔が増えていくのは、うれしいという言葉以外は見つからなかった。
 そしてもう一つ、茉莉花まりかにずっと仕える気持ちでいる、と言ったことについても考えていた。茉莉花まりかに、「恩義に報いる」と言った通り、一宮いちのみや家で助けてもらっているという思いや、執事見習いとして、「主人」である茉莉花まりかに仕えるという気持ちはもちろんあった。だがそれ以上に、主人としてではなく、「茉莉花まりか自身」に仕えたい、という気持ちがあるのを、見ないことにはできなかった。

 茉莉花まりかが部屋の前まで戻ってくると、ドアのところに一人の若い女性が立っている。女性は茉莉花まりかよりいくらか背が高く、肩につかないくらいの長さの髪は、小綺麗にまとまっている。
「おはようございます、茉莉花まりかお嬢様。身支度をいたしましょう。」
志歩しほさん、おはようございます。今日もよろしくお願いします。」
 女性は、茉莉花まりかと一緒に部屋に入った。
 この女性、志歩しほは、茉莉花まりかの身の回りの世話係だった。礼諒なりあきに遅れること数か月、15歳になったら世話係もつけるということで、重元しげもと桜子さくらこ吉川よしかわが連れてきた。茉莉花まりかより3つ年上だと言い、当初は専門学校に通いながら、世話係としてのつとめを果たしていた。この春卒業し、専業の世話係になった。
 志歩しほはいつものように、着替えを手伝ったり、茉莉花まりかの髪をとかしたりしながら、他愛のない会話をする。20歳の志歩しほは、17歳の茉莉花まりかにとってはとても大人だ。いつもにこやかで、知識も豊富、機転も効く頭の良さは、茉莉花まりかにとってのお手本や憧れになった。茉莉花まりか志歩しほのことを、姉のように慕っていた。
 着替えの途中で、茉莉花まりかはふと、先ほどの礼諒なりあきとのやりとりを思い出し、ついため息がこぼれた。志歩しほはそのため息を聞きもらさなかった。
「お嬢様、どうなさったのですか? 恋の悩みでもおありですか?」
 どこかいたずらっぽさも感じられるような声で、志歩しほ茉莉花まりかに問いかける。
「えっ……。そ、それは……。」
 予想外の、「恋」という言葉に、茉莉花まりかは動揺し、うまく会話の流れを作ることができない。志歩しほはやっぱりという雰囲気で、さらに続ける。
「うふふ、わかりますよ。お嬢様が通われている学校は、由緒正しいですものね。ご学友にも紳士で素敵な方が多くいらっしゃると思いますし、好きになることだって当然考えられますよね。」
 明るい志歩しほとは対照的に、茉莉花まりかは沈んだ顔になった。
「でも、わたしは親が決めた人と結婚するって決まっているし、自由恋愛や交際は、明確に禁止されているわけではないけど、きっと良くは言われないもの……。だから、誰かを好きになるとかは、しないようにしているんです。」
「お嬢様……。」
 志歩しほは、自分の浮かれた気持ちを反省するかのように、茉莉花まりかと同じように沈んだ顔になった。だが次の瞬間には、悟ったように言った。
「でもお嬢様、いったん好きになってしまったら、お気持ちはめられないでしょう? 確かに一宮いちのみや家のしきたりというものはありますが、どうかご自分のお気持ちを大切になさいませ。誰かを好きだというそのお気持ちを、なかったことにだけは、どうかなさらないでくださいね。」
志歩しほさん……。」
 茉莉花まりか志歩しほの言葉に、少し勇気づけられた気がした。志歩しほの揺るぎなさに、ふと疑問が浮かんだ。
「あの、もしかして志歩しほさんも、そういう経験がおありなのですか?」
 志歩しほはあっけらかんと答える。
「いいえ、わたしは自分自身の恋愛や結婚には特に興味はありません。」
「そうなのですか? でも、鋭いし、とても深い考え方ですよね。」
 茉莉花まりかの疑問に、志歩しほは単純明快な答えを述べる。
「興味がないのは、自分自身がどうかなることであって、人の気持ちや心の動きについては、とても興味があるのですよ。それにお嬢様は、お仕えしている方なのですから、なおさらです。お嬢様のお気持ちに心を配るのは、当然のことなのです。」
「やっぱり、志歩しほさんは大人ですよね……。」
 茉莉花まりかは感心したように言った。そして、先ほどの礼諒なりあきとの会話でもした質問を、志歩しほにも投げかけてみた。
「あの、志歩しほさん、いきなりですが、このお仕事、つらくないですか? わたしとは違って、志歩しほさんにはやめる自由がありますし、わたしはその自由を大切にしたいんです。」
 志歩しほは一瞬驚いたようだったが、すぐに楽しそうな笑顔になった。
「何をおっしゃいますか、お嬢様。わたしはこの仕事は天職だと思っているんです。」
「天職ですか?」
「ええ。わたしは子どもの頃、おとぎ話を読んで、お姫様の召使いになりたかったんです。」
「召使い……。どうしてですか?」
「お姫様自身になるよりも、お姫様のお世話をしたり、そばで見守ったりしたかったんです。ですからこの仕事と茉莉花まりかお嬢様に出会えたことは、とても幸せで、毎日が楽しいのです。お嬢様がお望みなら、ずっとついていきますよ。」
 茉莉花まりかはなぜだかほっとした。それと同時に、自分の個人的な感情が知られても、志歩しほなら信頼できるのではないか、という思いも感じていた。

 食事やその後の身支度が終わると、茉莉花まりか礼諒なりあきは学校へと出かける。二人は、執事の吉川よしかわが車で送迎している。今日もいつものように、茉莉花まりかたちは車で学校に出かけた。
 二人とも、学校の制服をまとっている。茉莉花まりかは無地の濃色の、前ボタン開きでひざ下丈のワンピース。高級な綾織あやおりの毛織物けおりものが使われている。ウエスト部分で切り替えられており、スカート部分には前後それぞれ二箇所にタックが入れられていて、すそから数センチ上には、身生地みきじと同系色の、細幅のサテンリボンが縫いつけられている。身生地と対照的な白い角衿かくえりとカフスが目を引き、衿の先には、学校の紋章が、学校の色である薄浅葱うすあさぎの糸で刺しゅうされている。首元には、白の朱子織しゅすおり生地のフリルタイをつけている。
 礼諒なりあきが着ているのは、ベスト付きのスーツ。茉莉花まりかが着ているのと同じ生地が使われており、簡素なデザインながら、高級感を漂わせている。白の平織ひらおりのシャツに、紺色を基調にし、薄浅葱や他の数色で構成された、斜めストライプのネクタイをつけている。スラックスは体に合ったものをはくことを規定されており、ほどよいゆとりが、上品さを醸し出している。
 車の中では、二人は学校の勉強に関することを中心に話しながら、車窓からの景色も味わっていた。車に乗っている時間は、それほど長いわけではない。一宮いちのみや家のまわりの、自然豊かな風景から、住宅街、そして学校のある、少しにぎやかなところへと、短時間のうちにいつの間にか変わっていくさまは、二人の目を楽しませている。
 そうして、二人の通う学校が見えてくる。この地域で昔によく見られた、派手さはなくとも洒落たデザインの外観は、学校の歴史の重みを感じさせる。いっぽう校舎の中は、生徒の学習環境のために、最新の設備もそろえられている。普通教室は掃除が行き届いており、温かみを感じる木の床は、生徒たちの学習意欲を引き出す一つの要素になっていた。

 学校に着くと、二人は他の生徒たちに交じって、校舎へと入っていく。どの生徒も制服を折り目正しく着こなしている。
 同じクラスである茉莉花まりか礼諒なりあきは、いつものように同じ教室に入っていく。
 教室では、ふだん二人はあまり話すことはない。二人だけで固まるのではなく、お互いに別の友人との交流もできるように、との配慮からだった。とはいえ、二人の関係は、級友に当然のこととして認識されており、時に羨望のまなざしも向けられる。恋仲なのかと問われることすらあった。その日も、礼諒なりあきは同じクラスの男子生徒に尋ねられた。今年初めて同じクラスになった相手だった。
笹原ささはらくんは、一宮いちのみやさんとおつき合いしたりとかは、していないの?」
 男子生徒の無邪気な疑問に、礼諒なりあきは慌てて否定の態度を見せる。
「そんな、とんでもない。茉莉花まりか様は一宮いちのみや家の将来のご当主様、僕はあくまで一宮いちのみや家と茉莉花まりか様の使用人なんだ。身分が違う。おつき合いだなんて、おこがましすぎるよ。」
 だが男子生徒は、礼諒なりあきの否定の言葉に、どこか否定したくないという気持ちを感じ取ったようで、さらに聞き込んだ。
「でもさ、一宮いちのみやさんってかわいいし、上品で、言葉遣いもきれいで、いかにもお嬢様だよね。その上成績もいつも上位だし。ずっと近くにいたら、絶対に好きになると思うよ。おつき合いできたり、万が一結婚でもできたりしたら、玉の輿……。」
「その言い方は、茉莉花まりか様に失礼だ!」
 話の腰を折るように、礼諒なりあきが少し声を荒げた。にらみつけるかのように、男子生徒を見ている。
「ごめん、笹原ささはらくん……。」
 男子生徒が謝ると、礼諒なりあきもすぐに顔色を穏やかに変えた。そして少しため息をつくと、「執事見習い」として、茉莉花まりかについて説明した。
茉莉花まりか様が成績上位なのは、熱心に勉強されているからだよ。学校の勉強だけじゃない。ご当主様になるための勉強もそうだ。茉莉花まりか様は一人娘だから、15歳までは、ずっと一人で勉強されていたんだ。」
「ずっと一人で、というと?」
 男子生徒は礼諒なりあきの言葉の意味がつかめずに、顔に疑問符を浮かべた。礼諒なりあきは説明を続ける。
一宮いちのみや家では、きょうだいの誰もが当主を継げるように、当主の勉強はきょうだいみんながするそうなんだ。結果的に継ぐのは一人だけど、継がなかった場合でも、親族として家業を手伝ったり、事業を起こす時に役立ったりもするらしい。」
「なるほど、一宮いちのみやさんのおうちはそうなっているのか。」
「つまりきょうだいがいれば、きょうだい同士で勉強の苦労を分かち合うこともあるんだ。でも茉莉花まりか様はそれができない。ずっと一人だったということだ。」
 それからしばらく、礼諒なりあき一宮いちのみや家について、簡単に説明した。説明が終わると、男子生徒はどこか気持ちのやり場がないような、少し暗い顔になった。
「本当にすごいおうちなんだな。僕には務まりそうにないよ。」
「そういう家系だから、茉莉花まりか様は恋愛や結婚も自由にできない。親が決めた相手との結婚なんだ。使用人である僕がおつき合い、いや片思いすら、無礼なことなんだ……。」
 そう言うと礼諒なりあきは、しばらく無言になった。礼諒なりあきの様子を見て、男子生徒もしばらく何も言わずにいたが、また礼諒なりあきが口を開いた。
「でも、そんな環境にあっても、茉莉花まりか様は文句の一つもおっしゃらない。つねに向上心を持って勉強されている。とても我慢強くて、粘り強いお方なんだよ。」
 礼諒なりあきは、ふたたびだまると、級友である数人の女子生徒とともにいる、茉莉花まりかのほうへと目を向けた。