一生、お仕えします その4

第4話 仕事と好意のはざま

 帰宅して一息つき、こまごまとした用事を片付け、宿題や勉強を始めたかと思うと、あっという間に夕食の時間になる。
 茉莉花まりかはダイニングへ行き、食卓の席に着いた。少し大きなダイニングテーブルは、日によってその装いを変える。今日は、薄桜うすざくら色のジャカード織りのテーブルクロスが敷かれ、色鮮やかな花が数本、花瓶に挿されて添えられていた。
 食卓には、茉莉花まりかと母の桜子さくらこが座っている。茉莉花まりかの世話係である志歩しほも、少し離れて待機していた。父の重元しげもとは、仕事の都合で秘書とともに外食とのことだった。
 まもなく、礼諒なりあき茉莉花まりかの元へ、夕食を運んできた。
「お嬢様、本日のメインディッシュ、白身魚のムニエルでございます。」
 そう言って、いつも通り茉莉花まりかのところへ皿を置くのだが、かすかに手が震えていた。
「な、礼諒なりあきさん、あの……。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの様子に気づいたのか、ふと名前を呼ぶ。それ以上のことも言いかけたものの、途中で口を閉じた。
 そのうちに、吉川よしかわ桜子さくらこの食事を運びに、ダイニングへと入ってきた。吉川よしかわは、礼諒なりあきを見て、いつもとの違いを感じたようだった。
礼諒なりあき、大丈夫か? 何か手こずっているのか?」
 礼諒なりあきは慌てたように、吉川よしかわのほうへ振り向いた。
「いえ、何も問題はございません。いつも通り、順調におこなっております。」
 そう言うと、礼諒なりあきは給仕を終え、後ろへと下がった。
 食事が始まり、茉莉花まりか桜子さくらこは会話しつつ、上品に食べていた。途中で、志歩しほと、桜子さくらこの世話係の女性が、自分の分の食事を自分で用意し、席に着いて食べ始めた。
 茉莉花まりかの食べる速さが、どこか普段よりゆっくりに感じた桜子さくらこは、茉莉花まりかに尋ねた。
茉莉花まりか、どうしたの? おなかいっぱいなの? お魚のムニエルは嫌いじゃないわよね?」
「いいえ、お母様。でもなぜそんなことを?」
「だって、なんだか食べるのがゆっくりに感じたから……。」
 一瞬、茉莉花まりかの箸が止まった。その後ふたたび箸を動かし、2口ほど食べてから、桜子さくらこに言った。
「確かに、そうかもしれないわ。でも、食べ物のせいではないの。」
「それならいいけど……。食べるのがゆっくりなのは、心配だわ。もしかして、学校で何か嫌なことでもあったりした?」
 「学校で」という言葉に、一瞬動揺を見せたものの、すぐに気を取り直し、
「いえ、ないわ。学校の方たちは、とてもいい方ばかりだもの。心配してくださらなくても大丈夫よ。」
と言うと、茉莉花まりかは何気ない顔で――相変わらず、ゆっくりではあったが――桜子さくらこと談笑しながら食事を続けた。
 茉莉花まりかたちの食事が終わり、ダイニングを出た後、礼諒なりあきは食器を食卓から下げ、洗う。食器洗い担当の家事人かじにんの男女と一緒に、台所で食器の片づけをおこなっていた。
 礼諒なりあきは洗った食器を拭く作業をしていた。拭き残しがないよう、心を込めて美しく、ていねいに拭く。将来、使用人を統括する立場になる礼諒なりあきは、今は使用人の仕事を理解するため、日々、あらゆる家事をしている。多岐にわたる家事とはいえ、2年ほども経験すれば、慣れた手つきでできるようになっていた。そのため、今日の食器拭きも、問題なくおこなえるはずだった――。
 にわかに、磁器が打ちつけられるような、やや大きな音がした。先ほどまで食器を持っていた礼諒なりあきの手には、今は何もなかった。代わりに床の上には、白を基調にし、控えめな絵が描かれている、平らな中皿ちゅうざらがあった。
笹原ささはらさん、大丈夫ですか?」
 家事人の若い男性が、心配そうに礼諒なりあきを見た。その後床に目をやると、皿は原形をとどめていた。
「今の音はなんだ?」
 テーブルの装飾を片づけていた吉川よしかわが、慌てた様子で台所に走ってきた。礼諒なりあきは皿を拾い、吉川よしかわに渡した。
「申し訳ありません、吉川よしかわ様。お皿を落としてしまいまして……。」
 吉川よしかわは、礼諒なりあきの落とした皿を受け取ると、状態を確認した。
「特に何もないようだな。割れたり欠けたりしなかったのは幸いだが……。」
 そこで一呼吸置くと、厳しい顔になり、礼諒なりあきに言い放った。
礼諒なりあき、さっきもなんだか様子がおかしかったし、気がゆるんでいるんじゃないのか?」
「いえ、そんなことは……。」
 礼諒なりあきは、自分の動揺を悟られまいと、取り繕おうとした。しかし、吉川よしかわには見抜かれているようだった。
「だがその様子では、仕事は任せられない。今夜はもう終われ。」
「ですが……。」
「とにかく頭をすっきりさせなさい。わかったな?」
 反論の余地を与えず、吉川よしかわ礼諒なりあきに、今日の仕事は終わるよう促した。
 礼諒なりあきは申し訳なさそうに、家事人たちに謝ると、とぼとぼと自分の部屋へと向かった。

 入浴を済ませた茉莉花まりかは、部屋でぼんやりと教科書を読んでいた。そこへ、ドアをノックする音がした。
「お嬢様、志歩しほでございます。」
 茉莉花まりかがドアを開けると、志歩しほがお茶の用意を持って、部屋へと入ってきた。茉莉花まりかはふと疑問に思い、志歩しほに尋ねた。
「あれ、今日は礼諒なりあきさんではないんですか?」
 いつもはお茶を持ってくるのは、礼諒なりあきの仕事だった。
「はい、お嬢様。礼諒なりあきさんは、ご都合で今夜のお仕事はお休みされるそうです。ですので代わりにわたしがお茶をお持ちいたしました。」
「そうなんですか……。」
 茉莉花まりかは少し、曇ったような顔になった。
 志歩しほはそんな茉莉花まりかの顔を気にしつつ、持ってきた茶葉とお湯で、お茶を淹れた。
「やっぱりお嬢様にとっては、礼諒なりあきさんが淹れられたお茶が一番ですよね。申し訳ございません、今日はわたしで……。」
 ゆっくりとお茶を飲む茉莉花まりかに、志歩しほは明るく、しかし意味ありげな雰囲気を漂わせる。
「そんな、志歩しほさんが淹れてくださったお茶もおいしいですよ!」
 茉莉花まりかは、自分の態度が志歩しほを傷つけているのではないかという懸念を抱き、慌てて志歩しほのお茶をほめた。
「ありがとうございます、お嬢様。」
 志歩しほはそう言って微笑むと、穏やかな顔で続けた。
「でもやっぱり、わたしの立場で申し上げますと、お嬢様にとっては礼諒なりあきさんが一番だと思うのです。将来は、お仕事の面でも、頼りにされる方ですからね。一宮いちのみや家のご当主になるための勉強も、ご一緒になさっているでしょう? わたしは、そちら方面には基本的にかかわりはございませんからね。」
 そこまで言うと、志歩しほは急に真面目な顔になり、話題を変えた。
「ところでお嬢様、先ほどのご夕食のとき、なんだかいつもと雰囲気が違って見えたのですが……。」
「そ……そうですか?」
 志歩しほの表情に、茉莉花まりかは少し、脈が上がる。
礼諒なりあきさんと、何かおありではありませんか?」
「えっ……何か、って……。」
 茉莉花まりかは言葉に詰まる。「何か」があったことは知られてはいけない、という思いがあるが、とっさに聞かれ、自分の態度ににじみ出ている可能性に、焦りと不安を覚えた。
 志歩しほ茉莉花まりかの様子から、やはり「何か」があったと感じ、心配そうに言葉をかける。
「例えば、礼諒なりあきさんとけんかなさったとか、嫌な思いをされるようなことがあったとか……。」
 茉莉花まりかは、志歩しほの質問の意図を理解すると、ほっと胸をなでおろした。
「いいえ、そんなことはありません。礼諒なりあきさんとけんかしたり、ましてや嫌な思いだなんて……。礼諒なりあきさんはいつも誠実に、わたしに尽くしてくださっています。」
 茉莉花まりかは笑顔になった。
「それならよろしいのですが……。お嬢様、礼諒なりあきさんとのことでも、ほかのことでも、わたしにお話しできることがありましたら、いつでもご相談くださいね。」
 志歩しほはそう言うと、茉莉花まりかが飲み終わった湯飲みを持って、部屋を出た。
 一人になった茉莉花まりかは、あれこれと考えを巡らせていた。志歩しほに言われた言葉、夕食時の礼諒なりあきの様子、そして何より、昼間の礼諒なりあきとの会話と……。茉莉花まりかはふと手を握りしめ、その手を見つめた。礼諒なりあきの行動は、単純に執事見習いとして、自分を励まそうとしたものだと、自分に言い聞かせつつも、それ以上の意図をどこか期待したい気持ちも、見え隠れしている。
 茉莉花まりかは、志歩しほが来る前にしていた、教科書読みや、勉強の続きをしようと、机に向かった。だが少し経つと、礼諒なりあきに手を握られた感触がよみがえってくる。その感触を消し、また浮かんでは消し、何度も繰り返していたため、勉強どころではなかった。
(もう、今日は寝ましょう……。)
 いつもより早い時間だったが、布団に入り、部屋の電気を消した。

 そのころ礼諒なりあきは、自分の部屋の机の前で、今日の失態について頭を抱えていた。一連の出来事は、学校から帰る前の、自分の行動によるものだということは、はっきりと自覚していた。
「一度冷静になって、頭を切り替えよう……。」
 礼諒なりあきは静かにつぶやくと、小さな本棚から一冊の本を取り出した。
 部屋には机や寝具、服をしまうクローゼットのように、生活や勉強に必要な家具のほか、息抜きのための娯楽や趣味のものを置くことも許されている。礼諒なりあきは、給料で好きな本を買い、余暇に読んでいた。6畳の部屋には、たいして大きな本棚は置けないものの、礼諒なりあきが日々のささやかな楽しみを味わうには充分だった。小さな本棚の物理的な限界などものともしない、目に見えない大きな空間が、そこには広がっていた。
 本を読み始めた礼諒なりあきだったが、ふと本を閉じ、考え始めた。皿を落としてしまったことは、今後の家事をこなすことで、汚名返上するしかない。それは礼諒なりあきにとっては、簡単とは言えないかもしれないが、さほど難しいわけでもなかった。礼諒なりあきにとっての大きな問題は、今日の失態の発端――茉莉花まりかの心のうちについてだった。
(どうすれば、少しでもお嬢様のお心に、光を差すことができるのだろう……。)
 しばらく考えるものの、何もいいアイデアが浮かんでくるわけではなかった。自分の発想力のなさに意気消沈し、本でも読みながら、とふたたび本を開いた。
 そのときふと何かに気づくと、礼諒なりあきは席を立ち、本を持って部屋を出た。

 勉強が手につかないからと、早々に布団に入った茉莉花まりかだったが、頭の中を巡る考えは、止まってくれはしない。目を閉じても、眠くなるおまじないをしても、眠くなることはなく、布団の中で、何度も体の向きを変えていた。
 いっそのこと布団から出て、無理やりにでも勉強しようか――そう茉莉花まりかが思ったとき、ドアをノックする音が、部屋に響いた。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか? 礼諒なりあきでございます。」
 茉莉花まりかは慌てて布団から出て、部屋の電気をつけ、パジャマの上からカーディガンを羽織ると、部屋のドアを開けた。私服姿の礼諒なりあきが、本を胸に抱えて、立っていた。
礼諒なりあきさん、どうなさったの? 志歩しほさんから、今夜のお仕事はお休みって聞いたのだけれど……。」
「はい、お休みさせていただきました。ですからその……今は、個人的な用事で……。」
 礼諒なりあきは申し訳なさそうに、言葉を濁す。本来、使用人である礼諒なりあきは、個人的な用事で、茉莉花まりか重元しげもと桜子さくらこの部屋に行くべきではない、と吉川よしかわに言われている。
「あの、礼諒なりあきさん、よかったらお部屋でお話ししましょう。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきを、自分の部屋に入れようとする。
「いえ、かまいません。これをお渡しするだけですので……。」
 そう言うと、礼諒なりあきは抱えていた本を、表紙を茉莉花まりかのほうへ向けて、差し出した。小さなその本の表紙には、ファンシーな絵柄で、少女と少年を中心にした世界の絵が、色彩豊かに描かれている。
「この本をわたしに、ってこと?」
「はい、お嬢様。創作童話の本でございます。お嬢様のお好みに合うかと思いましたので、お貸ししようと思いまして。もしよろしければ、息抜きにお読みになってください。」
 茉莉花まりかは本を受け取ると、礼諒なりあきに理由を尋ねる。
「ありがとう。でも急に、どうなさったの?」
「いえその……今日帰る時の、お嬢様のお顔が忘れられなくて。お支えすると申し上げたものの、結局今のわたしには、何もお力になれることはないことに気がつきました。」
 礼諒なりあきは少しうつむきつつ、続ける。
「ですのでせめて、少しでも、お嬢様のお心が晴れるようなものを、ご提供したいのです。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの思いを受け止めると、笑顔になった。
「そこまで考えてくださったのね。わたし、本当に幸せ者だわ。今夜、ぜひ読ませていただくわね。」
「あ、お嬢様、別に急いでお読みにならなくてもいいのですよ。お返しくださるのも、いつでもかまいませんし……。」
「お気遣いありがとう。でも、今夜は眠れそうにないの。だからちょうどよかったわ。こんなタイミングで本を貸してくださるなんて、礼諒なりあきさん、素敵ね……。」
 そう言うと、茉莉花まりかは少し顔が赤くなった。それに気づいた礼諒なりあきは、鏡に映したように、顔を赤らめた。
「いえ、そんな、お嬢様、わたしは執事見習いとしてのことをしたまでであって……。」
 礼諒なりあきの言葉に、にわかに、茉莉花まりかの顔から赤みが引いていく。
「そ、そうよね……。変なこと言って、ごめんなさい。」
 茉莉花まりかは今の自分の行動をごまかすかのように、突然話題を変えた。
「今日のことといえば……帰るときに、わたしが話したことは、絶対に誰にも言わないでくださる?」
 懇願するように言う茉莉花まりかに、礼諒なりあきは答える。
「もちろんですよ、お嬢様。あのときにも申し上げた通り、絶対に口外はいたしません。」
「ありがとう。あんなこと、口にしたのは初めてだったの。他の誰にも言えないことだもの……。礼諒なりあきさんだから、話せたわ。」
「お嬢様、それはとても、執事冥利に尽きるお言葉でございます。」
 礼諒なりあきは深々と頭を下げた。それなりに平静を装っていたが、心の中では叫びたいくらいに、うれしい気持ちがあふれていた。
 礼諒なりあきが頭を上げると、茉莉花まりかはすっと息を吸い、何か言いたげに、口を開きかけた。だがなかなか最初の言葉が出てこない。やがて決心がついたのか、それでも言いづらそうに、少しずつ口に出す。
「それと、その、手……のことも、他の人に知られないようにしないといけないわね……。」
「あっ! あのっ、その件は、本当に失礼いたしました! なんとおわびを申し上げればよいのやら……。」
 礼諒なりあきは顔を赤くし、また頭を下げる。先ほどとの違いを表現するため、自己満足だと思いつつも、頭の下げ方を少し変えた。
「そんな、おわびなんていらないわ。だって、礼諒なりあきさんだもの……。」
 茉莉花まりかはそこまで言うと、だまったまま下を向いた。
「お、お嬢様……。」
「とにかく、この本をお借りするわね。読むのが楽しみだわ。」
 下を向いたまま話す茉莉花まりかに、礼諒なりあきは慌てて、
「ではお嬢様、ごゆっくりとお休みくださいませ。」
と早口で言うと、茉莉花まりかの部屋のドアを閉め、自分の部屋へと歩いていった。
 一人になった茉莉花まりかは、速足で机に向かうと、まず本の表紙をじっくりと眺めた。
 礼諒なりあきの、茉莉花まりかの好みに合いそうだとの言葉通り、表紙の絵がすでに、ずっと眺めていたくなるような、好きな作風だった。デフォルメされた、描き込みが少なくありながら、特徴をとらえた、真に迫ってくるような絵柄。明るい色合いと淡い色合いを中心にした、春の風景のような、躍動感と繊細さのある絵面えづらに、中身を期待させられる。
 茉莉花まりかはていねいに表紙をめくり、目次を確認する。気軽に読めそうな、いくつもの話が詰め込まれた短編集のようだった。ひとまず、頭から順に読むことにした。
 一文一文、かみしめるように、情景を頭に浮かべながら、存分に話を味わう。もったいぶるような、ゆっくりとした進みだったが、しだいにページをめくるのが速くなっていった。いつしか、物語の世界に引き込まれていた茉莉花まりかは、ただひたすら、先を知りたい欲求に飲まれていった。
 一通り読み終わり、茉莉花まりかが時計を見ると、それほど遅い時間ではなかった。ここで眠りにつくことも考えたが、本の世界にはまり込み、より深いところまで思いを巡らせたくなったからなのか、それとも昼間の緊張がまだほどけていないからなのか、眠りたいという思いは湧いてこなかった。茉莉花まりかはふたたび表紙を眺めると、二度目の没入を開始した。
 一度だけでは足りず、何度も読む茉莉花まりか。気づくと、鳥のさえずりが聞こえる。窓際に行き、カーテンをそっと上げると、空が白んでいた。
 その日の夜は、いつも通り、礼諒なりあき茉莉花まりかのお茶を持ってきた。礼諒なりあきの淹れたお茶をゆっくりと味わうと、茉莉花まりかは、昨日借りた本を、礼諒なりあきに返した。
「もうお読みになったのですか?」
 礼諒なりあきが驚く。
「ええ、すぐに読めるし、面白いから、ついどんどん読んでしまったわ。一度だけじゃなくて、何度も読んだの。」
「お嬢様、もしかして、それで今日、眠そうになさっていたのですか?」
 礼諒なりあきは、今日の茉莉花まりかの学校での様子を思い出し、心配そうに言った。
「そんなに眠そうに見えた? 夜は眠くなかったのに、やっぱり寝ないと体にくるのかしら。」
「お嬢様……。かえってご健康を損なうことをしてしまったようで、申し訳ありません。」
 礼諒なりあきは頭を下げ、謝罪の気持ちを表明した。
礼諒なりあきさんは何も悪くないわ。わたしが好きで読んだだけだもの。」
 茉莉花まりかは、自分こそと言いたげに、申し訳なさそうな声で言うと、気を取り直すように、話題を変えた。
「ところで礼諒なりあきさん、この本は、礼諒なりあきさんの私物なのよね?」
「ええ、そうですが……。何か問題がおありでしたでしょうか?」
「いえ、そうではないの。この本、わたしの好みに合いそう、ってすすめてくださったのよね?」
「はい。お読みになるのなら、お好みに合うもののほうがいいと思いまして……。おこがましくはありましたが、自分が好きで読んで、内容をよく知っている本の中から、これはと思ったものをお貸ししました。いかがでしたでしょうか?」
 茉莉花まりかは、礼諒なりあきの説明に、はにかんだ。
「つまり、この本は礼諒なりあきさんが好きなお話ってことよね?」
「はい、そうです。」
「うれしいわ。礼諒なりあきさんと、好みが似ているのね……。」
 茉莉花まりかは少し恥ずかしそうに、はにかみつつも、礼諒なりあきから軽く視線をそらした。礼諒なりあきはどう答えていいかわからずに、自分の手を握ったり放したりしていた。
礼諒なりあきさん、もしよかったら、ほかの本も貸してくださる? 礼諒なりあきさんが好きな本、もっと読んでみたいの。」
「かまいませんが……お嬢様のお好みに合うかどうかは、わかりかねるのですが……。」
「それでもいいわ。違う人間だもの、好みだって違って当たり前よ。たまたま今回、好みが似ていただけかもしれないし。だからこそ、礼諒なりあきさんが好きなものをもっと読んでみたいの。わたし、礼諒なりあきさんのことをもっと知りたいの。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきに視線を戻したと思うと、まっすぐな目で礼諒なりあきを見つめた。だが礼諒なりあきは、茉莉花まりかの思いを、受け止めようにも受け止められない。
「お嬢様、わたしのことなど、それほどお知りになる必要はございませんよ。わたしは執事見習い、つまりお嬢様にお仕えしている身、そんなお情けをかけていただくことは、いけないことなのでございます。」
 礼諒なりあきが、真面目な顔で答える。その表情には、どこか憂いが見え隠れしていた。
礼諒なりあきさん……。」
 茉莉花まりかが急に下を向く。肩を落としているようにも見えた。礼諒なりあきは今の自分の発言を後悔しつつ、しかしそう言わざるを得ない自分の立場にもどかしさを感じた。
「お嬢様、申し訳ありません。ですが、本をお借りになりたいとおっしゃるのなら、いつでもお貸しします。それによって少しでもお嬢様のお心が晴れるのなら、執事見習いとして、これ以上の幸せはありません。」
「ありがとう。では今後も貸してくださるとうれしいわ。」
 茉莉花まりかは上を向いた。その顔からは、雨上がりの虹が感じられるようだった。
「それではお嬢様、わたしはもう少し仕事が残っていますので、これにて失礼いたします。今夜はごゆっくりお眠りくださいませ。」
 そう言うと、礼諒なりあきは飲んだ後の湯飲みを持って、茉莉花まりかの部屋を後にした。
「そうよね、礼諒なりあきさんは執事見習いだものね。それがお仕事なのよね……。」
 礼諒なりあきがいなくなった部屋で、茉莉花まりかはこっそりとつぶやく。礼諒なりあきが自分の好みに合わせて本を貸してくれたこと――自分の好みを覚えていてくれること――に、抱えきれないほどの喜びを感じていた。だが、考えてみれば、それは当然のことだった。執事が主人の好みを覚えるのは、当たり前の仕事なのだから――。
 今日は勉強しようと決めた茉莉花まりかは、小さな歩幅で、机のほうへと歩いていった。

 礼諒なりあきは台所に行くと、茉莉花まりかに出したお茶の道具を片づけていた。今の時間はほかの者は台所におらず、礼諒なりあきは一人で作業していた。
 先ほどの茉莉花まりかとの会話は、複雑な思いではあったものの、ひとまずは茉莉花まりかに喜ばれたことを感じた礼諒なりあき。「好みが似ている」と言った茉莉花まりかの言葉を、頭の中で何度も再生していた。口許くちもとがゆるんでいるのを、自分でも感じていた。
 湯飲みや急須を洗い終わって、いったん手を拭いたとき、吉川よしかわが入ってきた。吉川よしかわは、礼諒なりあきの様子を鋭く察すると、けわしい声で言った。
礼諒なりあき、口角がやけに上がっているな。何かいいことでもあったのか?」
 礼諒なりあきははっとして、慌てて口角を下げる。
「いえ、特に何も……。」
「本当か? 怪しいな。今おまえがしているのは、お嬢様にお出ししたお茶の道具の片づけ、といったところだろう。つまり、さっきまでお嬢様のお部屋にいたということだ。」
「よ、吉川よしかわ様……。」
 礼諒なりあき吉川よしかわの勘の良さに、言葉を発することができない。吉川よしかわは自分より背が高いといっても、そこまで大きく変わらない。にもかかわらず、かなり上から見下ろされているような、威圧感のある目に、礼諒なりあきはひるんだ。強く握った手には、汗がにじんでいるのが感じられる。長かったのか短かったのかわからない沈黙の後、吉川よしかわがゆっくりと口を開いた。
礼諒なりあき、もしかしてお嬢様に個人的な感情を抱いていないか?」
「えっ……。」
 何も答えられない礼諒なりあきに、吉川よしかわはそのまま続ける。
「お嬢様はわたしから見ても、気品あるお方だ。また優秀でいらっしゃるし、将来、ご当主としてもご立派につとめを果たされるであろう。そんなお嬢様に、憧れの気持ちを抱くことも、もちろんあるだろう。そのこと自体は否定しない。」
 礼諒なりあき吉川よしかわの目を見ることができないまま、話に耐え続けた。
「だがな礼諒なりあき、おまえは、そしてわたしも使用人だ。主人に個人的な感情を抱いてはならない。もしお嬢様に個人的な感情を抱いたりでもしたら、あまつさえ一線を越えたりでもしたら……。旦那様にそのことが知られれば、このお屋敷にいられなくなる。わかっているよな?」
「はい、吉川よしかわ様。心得ております……。」
 やっとの思いで、声を絞り出す礼諒なりあき。無意識に、着ている服の布地をつかんでいた。
「わかっているならいいが……。憧れの気持ちがあるのなら、それ以上大きくならないうちに、封印しなさい。くれぐれも、お嬢様に、個人的な好意など抱くな!」
 少しにらむような、厳しい顔で礼諒なりあきをいさめると、吉川よしかわは別の仕事のため、台所を出ていった。
 礼諒なりあきはしばらく動けず、立ち尽くしていたが、やがて大きく息を吐くと、お茶の道具の片づけの続きに戻った。