一生、お仕えします その6

第6話 夏休み

 一学期が終わり、夏休みになった。すっかり晴れ続きになり、セミの鳴き声が、耳を伝って体中からだじゅうへとみわたっていく。青々とした木々の葉は、日の光を浴びると、そのつややかな表面からまぶしさを放つ。道では、日差しをよけるための傘が、花のように、あるところには固まり、あるところには散らばって、大きく咲き乱れていた。
 期末試験の後に、礼諒なりあきに宣言した通り、茉莉花まりかは夏休みに入るなり、いやその前から、一にも二にも勉強の日々を送っていた。父重元しげもとと母桜子さくらこに頼み、週4日は受験勉強のための家庭教師に来てもらうことにした。それ以外の日も、家庭教師の勉強の復習や予習、自分で選んだ問題集での勉強、そして一宮いちのみや家の家業のための勉強と、ほかの用事がない日は、一日中机に向かっていた。毎日、問題を解く数をこなすため、気づくと夜遅くなってしまう。自然と、睡眠時間も少なくなっていった。
 礼諒なりあき志歩しほは、茉莉花まりかの体調が気になっていた。礼諒なりあきは朝、茉莉花まりかを起こしに行くときや、夜などにお茶を持っていくとき、志歩しほ茉莉花まりかの身支度のために部屋を訪れるときなどに、それぞれ茉莉花まりかの体調を尋ねる。傍目には、どこか無理しているように見える茉莉花まりかだが、本人は決して、つらさを口にすることはなかった。
 礼諒なりあき志歩しほはときどき、一宮いちのみや家の屋敷の中にある「学習室がくしゅうしつ」で、休憩や相談をすることがある。学習室自体は、名前の通り、勉強するための部屋で、一宮いちのみや家のきょうだいが一緒に勉強するために作られている部屋だった。今の一宮いちのみや家の屋敷は、少なくとも茉莉花まりかの祖母の代から建っている。重元しげもと茉莉花まりかの祖母も、子ども時代にはこの学習室で、きょうだいとともに勉強していた。茉莉花まりか礼諒なりあきとともに勉強するときは、この部屋を使っている。落ち着いて勉強できるよう、座りやすい机やいす、本や辞書、コンピューターなどがそろえられている、静かな部屋だった。そのため、勉強以外にも、日々の仕事の合間の息抜きにもちょうどよい。
 夏休みも3分の1ほどを過ぎたその日、礼諒なりあき志歩しほはたまたま、学習室で一緒になった。礼諒なりあきは休暇の日で、受験勉強のために来ており、志歩しほは仕事の合間に、少し休憩するために訪れた。先に学習室にいた礼諒なりあきを見て、志歩しほが話しかける。
「あら、礼諒なりあきさん、お一人で勉強ですか? お嬢様とは一緒にされないのですか?」
「はい、お誘いしたのですが、お嬢様は、どうしてもお一人で勉強されたいとのことで……。」
 礼諒なりあきは少し寂しげな顔になった。志歩しほもつられて、困り顔になった。
「そうなのですか……。礼諒なりあきさんとは別の大学をご志望とはいえ、受験勉強は共通する部分もあるでしょうに……。そうはいっても、お嬢様は頑固なところがおありですからね。」
 困ったように言う志歩しほに、礼諒なりあきは苦笑する。ふと、志歩しほが思い出したように言った。
「頑固といえば、お嬢様はこの夏休み、本当に勉強ばかりなさって、少しもお休みされていませんよね。どうにかしてお休みいただこうと思っていて、礼諒なりあきさんにも相談しようと思っていたのです。」
 志歩しほ礼諒なりあきに、茉莉花まりかのことが心配であることや、自分自身も、里帰りをしたいことなどを説明した。その流れで、礼諒なりあきも、両親の墓参りに行きたいことを話す。二人は、それぞれの用事を「利用」し、茉莉花まりかに息抜きを促すことで、意見が一致した。
「あとは、お嬢様が首を縦に振ってくださるか、ですわね。」
 志歩しほが不安そうに言う。
「きっと大丈夫ですよ。お嬢様のことですから、ご自身のことでは動かなくても、わたしたちの用事という頼みは聞いてくださいますよ。」
 礼諒なりあきは、志歩しほの不安をやわらげるように、優しく返した。
「そう言われてみれば、そうですわね。ご自身のことには頑固ですけれど……。でも、そんなところがおありでも、やっぱりお嬢様のことは好きなんですよね。この仕事は、主人のことが好きでないと、つとまりませんものね。礼諒なりあきさんも、お嬢様のことがお好きでしょう?」
 特別な意味は含ませず、笑顔で自分の気持ちを表現する志歩しほ。だが不意に、「好き」かどうか問われてしまい、礼諒なりあきは答えに窮していた。
「えっと……。好きというのは、その……。」
 礼諒なりあきは、自分の顔が熱くなっているのを感じた。手には汗がにじむ。隠しきれない自分の反応に、鼓動も速くなっていく。その様子に気づき、志歩しほは慌てて、自分の意図について釈明する。
「あっ、ごめんなさい! 別に変な意味ではなく……。人として、お嬢様がお好きかどうか、ということですよ!」
「あ、そ、そうですよね。もちろん、お嬢様のことは、とても尊敬していますよ。最高のお嬢様に、執事見習いとしてお仕えさせていただけて、わたしは幸せですよ。」
 震える声を抑えつつ、礼諒なりあきは平静を装って話す。だがすぐには、鼓動は収まらない。礼諒なりあきは焦り、思わず志歩しほから顔をそむけた。志歩しほはそんな礼諒なりあきを、怪訝そうに見ていた。

 翌日、礼諒なりあきとの相談内容を実行に移すため、朝の身支度の時間に、志歩しほは話を切り出した。
「お嬢様、ここのところ、勉強ばかりですが、お体は大丈夫ですか? あまり睡眠も取られていないようですし、お顔色が悪く見えます。お休みになったほうがよろしいのでは?」
「いいえ、大丈夫です。とても元気ですよ。」
 元気を装う茉莉花まりかの声には、元気が感じられない。
「ですがお嬢様、息抜きも大切なものですよ。」
「この前はそう思っていましたが……そのせいで、あんな結果になってしまって悔しくて。次こそはなんとしても、いい成績を取りたいんです。一分一秒が惜しいんです。」
 茉莉花まりかは口角を下げ、唇をかみしめる。その様子に、志歩しほは何か言いたげに、少し口ごもっていたが、やがて申し訳なさそうに言った。
「ですがお嬢様、ときどきは、お休みになられて、よくお眠りになってくださいませんか? ……でないと、わたしも休暇を取りにくいのですが……。」
 茉莉花まりか志歩しほの意図を理解すると、慌てた顔になった。
「あっ、ごめんなさい! では、わたしも志歩しほさんのお休みに合わせて休みます。」
「ありがとうございます、お嬢様。」
 志歩しほは微笑み、話を続けた。
「お嬢様がお休みくださると、わたしも安心です。ところで、わたしの休暇の件ですが、少し長くなる予定なのですが……かまいませんか?」
「どれくらいですか?」
「旦那様には、もうお話ししたのですが……。実は、3日ほど、実家に里帰りさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか? しかも、日付も家族に指定されてしまっているのですが……。」
 志歩しほは、やや緊張した面持ちで述べる。茉莉花まりか志歩しほの気持ちに気づくと、やわらかな笑顔で答えた。
「もちろんいいですよ。どうかご家族に、元気な姿を見せてあげてくださいね。」
「本当ですか? よかったあー。ありがとうございます、お嬢様!」
 子どものように、無邪気に喜ぶ志歩しほに、茉莉花まりかの顔もほころんだ。はずむような声で、志歩しほが語り始めた。
「本当に、最初は困ったのですよ。いつもは手紙でやりとりしているからいいですが、いきなりこの日に帰ってきてくれって言われたんです。わたしの都合もありますのに。」
「ご家族の方は、なぜ日付を指定されたんですか?」
「それがですね、わたしが専門学校卒業後に、お嬢様のお世話係として、一宮いちのみや家に正式に就職ということになったので、改めてお祝いしようということのようです。父方と母方、両方の祖父母まで呼んで、食事会をすることになったそうですよ。祖父母の都合のいい日がその日だけとのことで。大げさですよね。」
 志歩しほは、あきれたように見えつつも、声はうれしさを隠しきれていないようだった。
「お祝いなんて、とても素敵ですね。」
 茉莉花まりかはにこりとし、志歩しほの話を楽しそうに聞いている。だが志歩しほは、しまったという顔になった。茉莉花まりかにとって、志歩しほのような一般家庭のお祝いは、「憧れ」であることを感じ取っていたからだった。
「申し訳ありません、お嬢様。家族自慢みたいになってしまいまして……。」
 志歩しほは恐縮し、頭を下げる。だが茉莉花まりかは怒る様子も見せず、穏やかな声で志歩しほに言った。
「自慢だなんて、そんな……。思えば、志歩しほさんのご家族のお話ってあまり聞いたことがない気がします。」
「そういえばそうですね。普段はお嬢様のことで精一杯ですし。」
 ふと、茉莉花まりかはあることを思い出し、志歩しほに尋ねる。
「ところで、確かわたしのお父様は、志歩しほさんのご両親にお会いしたんですよね?」
「はい。わたしの採用が決まったとき、旦那様がわたしの両親にごあいさつされるとのことで。」
「そうだったんですね。本来は、わたしがごあいさつしないといけないのに……。」
 茉莉花まりかはそう言うと、申し訳なさそうに下を向いた。
「ですが、お嬢様は未成年ですし、今わたしを実質的に雇ってくださっている、権限がおありなのは、旦那様ですからね。お嬢様も、いずれわたしの両親にお会いになるご機会もございましょう。」
 志歩しほが、茉莉花まりかの申し訳なさをすくいあげる。茉莉花まりかはふたたび上を向くと、笑顔になった。
「では、成人したときにでも、志歩しほさんのご家族にごあいさつさせてください。今は、ご家族のお話を聞かせてもらえるとうれしいです。」
「わたしの家族のお話でよければ、いくらでもお話ししますよ。」
 志歩しほはそう言うと、楽しそうに、茉莉花まりかの身支度を続けた。
 その日の夜も、茉莉花まりかが勉強中に、礼諒なりあきがお茶を持って部屋に来た。礼諒なりあき茉莉花まりかに、志歩しほの休暇の話をしたか尋ねた。
「ええ、今朝、志歩しほさんと、休暇についてお話ししたわ。わたし、自分のことばかりで、志歩しほさんのお休みのことを忘れてしまっていて、申し訳なかったわ。礼諒なりあきさんも、夏休みを取られる?」
 茉莉花まりかが穏やかな顔と声で、礼諒なりあきに問いかける。
「はい。わたしも、両親のお墓参りに行かせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんいいわよ。ご両親に会いに行ってあげて。」
 礼諒なりあきは、昨年・一昨年とも、夏頃に墓参りに行っていた。そのため、茉莉花まりかにとっても当然の用事だった。
「ありがとうございます。よろしければ、お嬢様もご一緒に行かれませんか?」
「えっ、わたし? わたしが行っていいのかしら?」
 突然の礼諒なりあきの誘いに、茉莉花まりかは戸惑った様子を見せる。
「はい。両親に、お嬢様のことを、わたしがお仕えしている主人として、ご紹介したいのです。もちろん、お嬢様のご都合が悪ければ、無理にとは申しませんが……。いかがいたしますか?」
 「紹介する」という言葉に、今朝の志歩しほとの会話を思い出す茉莉花まりか礼諒なりあきの誘いに乗ることにした。
「そうね。わたしも主人として、礼諒なりあきさんのご両親に、ごあいさつさせていただかないといけないものね。お墓参り、一緒に行かせていただくわ。」
「ありがとうございます、お嬢様。」
 礼諒なりあきが優しく微笑んだ。茉莉花まりかもつられて笑顔になった。
 その後、行く日時を決めたり、服装についての話をしたりした。午前中に出かけることになった。
「場所もこのお屋敷からそんなに遠くありませんし、吉川よしかわ様が車で連れて行ってくださいます。お昼前には終わると思うのですが、昼食はどうなさいますか? 外食されますか?」
「そうね……。せっかく出かけるのだから、外食したいわね。」
 茉莉花まりかは少し考えて、自分の希望を口にする。その言葉に、礼諒なりあきは少し緊張した様子で、茉莉花まりかに尋ねる。
「お店はどこにいたしましょうか。行きたいお店などはおありですか? わたしも、少し考えているお店があるのですが……。」
 礼諒なりあきの提案に、少し驚いたような顔をした茉莉花まりかだったが、
「好きなお店もあるけれど……。せっかく礼諒なりあきさんのおすすめがあるなら、礼諒なりあきさんにおまかせするわ。」
と言うと、微笑んだ。
「では、お店はわたしが決めさせていただきますね。」
 礼諒なりあきはほっとした様子になり、顔がほころんだ。

 数日後、志歩しほが里帰りのため、一宮いちのみや家をった。いつも見送られているのとは逆に、茉莉花まりか志歩しほを見送った。志歩しほ茉莉花まりかに、きちんと休むよう念を押し、礼諒なりあきにも、茉莉花まりかの休みを頼んでいた。
 志歩しほが里帰りのあいだ、茉莉花まりかの世話は家事長かじちょうの女性がおこなうことになった。志歩しほが休暇のときに、家事長に世話をされるのは、珍しいことではない。そもそも、志歩しほが来る前や、来た後も最近までは、家事長をはじめ、家事人かじにんの女性に世話をされていたし、子どもの頃は、教育係の女性がいた。だが志歩しほが専門学校を卒業した後は、ほとんどの日を、志歩しほに世話されている。その状況に慣れてしまうと、いくら、今も家事長から世話をされることがあるといっても、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。また、普段、志歩しほの休暇は一日のみで、二日以上連続して休みになることはなかった。それに、休暇といっても、屋敷内にはいるし、出かける場合もあるものの、その日のうちに帰ってくる。志歩しほが一日中いない日があるのは、初めてだった。
 そのためなのか、茉莉花まりかはどんよりとしているように見えた。礼諒なりあきはいつも通り、仕事をこなしつつも、茉莉花まりかの心のうちが気になっていた。
 志歩しほが発ったその日の夜も、礼諒なりあきはいつものように、茉莉花まりかの部屋にお茶を持ってきた。
「お嬢様、麦茶でございます。暑い日が続いていますので、今日も冷たいものをお持ちしました。」
「ありがとう。」
 茉莉花まりかは麦茶をゆっくりと飲み干した。冷えた麦茶は、いつもは浸透していく感覚に、暖かさをおぼえるのに、今日はただ冷たいとだけしか感じなかった。
 どこか暗い顔で麦茶を飲み、無言になる茉莉花まりかに、礼諒なりあきは心配そうに声をかけた。
「お嬢様、やはり志歩しほさんがいないと、寂しくお感じになりますか?」
「そうね……。いつも、どれほど志歩しほさんに頼りきっているか、よくわかるわ。」
 茉莉花まりかはしんみりとした声で言うと、下を向き、またしばらくだまった。
「やはりそうですよね。志歩しほさんは、頼りになる方ですし、お嬢様との信頼関係も、厚いですからね。」
 礼諒なりあきがそう言うと、茉莉花まりかはふたたび上を向いて言った。
「いつもそばにいてくださる人が、今日はいないというだけで、こんなにも寂しいものなのね……。もし礼諒なりあきさんがいなくなったら、わたし、どうなるのかしら……。」
 礼諒なりあきは少し、茉莉花まりかの言葉にどきりとしたが、茉莉花まりかを少しでも励まそうと、精いっぱいの思いを込めて言った。
「大丈夫ですよ、お嬢様。わたしは帰るところもありませんし……。ずっとお嬢様のおそばにいますよ。」
礼諒なりあきさん……。」
 真面目な顔つきで茉莉花まりかを見つめる礼諒なりあきに、圧倒されそうになった。しばらくして、「見つめられている」事実に気づくと、茉莉花まりかは顔を少し赤らめ、一瞬、礼諒なりあきから顔をそらした。その様子を見て、礼諒なりあきも、自分のしていることにはっと気づき、ふと顔が熱くなっていた。礼諒なりあきは気を取り直すように、話題を変えた。
「で、ではお嬢様、明日のお墓参りはよろしくお願いいたします。」
 茉莉花まりかが小さくうなずいた。
 しばらくして、礼諒なりあきが部屋を出た後、茉莉花まりかは本を読むなどして、ゆっくりと過ごしていた。そうしているうちに、寝る時間になり、布団に入った。布団の中で茉莉花まりかは、礼諒なりあきがなにげなく言った、「帰るところがない」という言葉を思い出し、あらわしようのない、もやもやした感覚にさいなまれていた。

 翌日、吉川よしかわの運転する車で、茉莉花まりか礼諒なりあきは墓参りへと出かけた。まわりから浮いて、目立たぬように、カジュアルな服を着た。礼諒なりあきの両親の墓は、一宮いちのみや家の屋敷からは、車で20分ほどの距離にある。茉莉花まりかは初めて見る景色に、思いをはせるように、車の中から外を眺めていた。吉川よしかわの顔が、いつも以上にけわしくも見えたが、茉莉花まりか礼諒なりあきも、そのことについては話題にできなかった。
 礼諒なりあきの両親の墓は、木々に囲まれた中の墓地にあった。夏の日差しがまぶしい中、敷地のところどころに植えられた木は軽い日よけにもなり、墓参りにくる者たちに、優しく寄り添っているようだった。
 墓の前で手を合わせ、茉莉花まりか礼諒なりあき吉川よしかわはそれぞれ、心の中で、礼諒なりあきの両親に話しかけていた。
 墓参りが終わり、車に戻る途中、茉莉花まりかは何気なく、礼諒なりあきに尋ねる。
礼諒なりあきさん、ご両親には何をお話ししたの? ずいぶんと長かったわよね。やっぱり、お話ししたいことがたくさんあるのね。」
「あ、えっと……。この方が、僕がお仕えしているお嬢様だよ、と……。」
 礼諒なりあきは少し恥ずかしそうに、顔を赤らめた。
「ご紹介くださったのね。ありがとう。わたしは、礼諒なりあきさんに出会わせてくださって感謝しています、未熟者ですがよろしくお願いします、とごあいさつさせていただいたわ。」
 茉莉花まりかが笑顔で言った。
「いえ、こちらこそ、お墓参りにご一緒していただき、両親にごあいさつもしてくださって、とても感謝しています。」
 礼諒なりあきは深々と頭を下げた。
 墓地から出て、3人は車で街へと向かっていく。一宮いちのみや家の屋敷へ行くのとは別の道を走り、やがて一軒の喫茶店カフェへと到着した。礼諒なりあきが、墓参りの打ち合わせのときに、昼食にと提案した、「礼諒なりあきおすすめ」の店だった。茉莉花まりかは今まで行ったことがなかったが、地域の人々に人気があるらしかった。
 吉川よしかわが、茉莉花まりかに軽く説明する。
礼諒なりあきの頼みで来ました。ここでお昼を食べたいとのことです。お嬢様も、このお店でお召し上がりで大丈夫ですか?」
 続けて礼諒なりあきが、この店に来た理由を説明する。
「お嬢様に、お休みのひとときを、と思いまして……。旦那様と吉川よしかわ様に頼み込んで、ここに行かせていただいたのです。いわゆる庶民の方々が、日常的に食事やお茶をする場所なので、味がお嬢様のお好みに合うのかはわかりかねるのですが、いかがいたしましょうか?」
 茉莉花まりかはふと、あたたかい空気に包まれたような、ほんわかとした気持ちになった。普段は口にはしないが、茉莉花まりかは「庶民」的な生活への憧れのようなものがあった。本来なら、外食するときにいつも行っている、「高級な」店のほうが、料理の味も、接客も、間違いがないはずだった。だがあえて礼諒なりあきは、「庶民の方々」に親しまれているこの店を選んだのだった。
 その気遣いに、茉莉花まりかは目を細めて答えた。
「ええ、もちろん、ここでお昼をいただくわ。」
 車から降り、店へと入っていく。淡く赤いレンガ風の壁と、白い窓枠とのコントラストが明るくかわいらしい外観の、こぢんまりとした店だった。店内は、木肌を活かした、温かみのある色合いのテーブルといすに、生成きなり色の壁紙。小さな絵がいくつか飾られており、大きめの窓からは、日の光がやわらかく差し込んでいた。
 店員にメニュー表を持ってきてもらい、好きなものを選び、食べる。普段の外食での店でもその経験はあるが、メニュー表のデザインも、食事の内容も、店員を呼ぶ方法もまるで違うことに、茉莉花まりかは驚き、新鮮さを覚えた。
 運ばれてきた食事を、一口ごとに味わう茉莉花まりか。人気がある店であるとの評判通り、茉莉花まりかの持つカトラリーの動きも活発だった。礼諒なりあきは安心した様子で、自分の分の食事も味わっていた。
 屋敷に帰り、夜、いつものように、礼諒なりあき茉莉花まりかの部屋へお茶を持ってきた。茉莉花まりかは勉強中だったが、いったん手を止めた。お茶をさっと飲み干すと、今日のできごとについて話し始めた。
礼諒なりあきさん、今日はありがとう。おかげさまで、とても新鮮な体験ができたわ。お食事も、おいしかったわ。」
 茉莉花まりかは微笑み、軽く頭を下げた。
「いえ、もったいないお言葉でございます、お嬢様。」
 礼諒なりあきはうれしいような、少し恥ずかしいような、複雑な気持ちを隠しきれず、笑みがこぼれる。
「今日のお店は、前からご存じだったの?」
 茉莉花まりかは、礼諒なりあきが店を知った経緯について、興味があるようだった。
「はい。子どもの頃、両親と何度か行ったことがありまして、結構好きなお店で……。たまたまお店の名前も覚えていたのです。今回調べましたら、まだお店があったので、お嬢様にもご紹介したいと思ったのです。」
「そうだったの。ご両親との思い出のお店なのね。」
 そう言うと、ふと茉莉花まりかは暗い顔になった。
「ところで、礼諒なりあきさんって、早くにご両親を亡くされて、施設で暮らしていたのよね?」
「ええ、そうですが……。」
「わたし、施設のことってあまり詳しくないのだけれど、生活は大変だったのでしょう?」
 悲しげなまなざしを向けてくる茉莉花まりかに、礼諒なりあきは戸惑いつつも、微笑みながら答える。
「いえ、そんなことはありませんよ。わたしのいた施設は、幸い環境にも人間関係にも恵まれていました。職員の方にも、良くしていただきましたし……。この国も、今の時代は、福祉が充実しているので、経済面で困ったことも、特にありませんでしたよ。」
「そうなのね。それならいいけど、でもやっぱり、自分のおうちでずっと育つのとはまた違うわよね。」
 茉莉花まりかは沈んだ声で続ける。
「今日、礼諒なりあきさんのご両親のお墓参りに行かせてもらって、思ったの。わたしは両親もいて、住む家もあって、そればかりかお世話してくださる人が何人もいるし、何不自由ない生活をさせてもらっているのに……。仕事や結婚相手が選べないとか、そんなことで不満なんて言っちゃいけないわよね。自分が、とても恵まれていて、すごくぜいたくな考え方なんだって、思い知らされたわ。」
「お嬢様……。」
 礼諒なりあき茉莉花まりかの突然の言葉に、どう答えるべきか、戸惑った。だが自分には、「茉莉花まりかを支える」という信念がある。礼諒なりあきは、今できる精一杯の思いを込め、茉莉花まりかに言った。
「ですがお嬢様、外からはどんなに恵まれているように見えても、お嬢様のお心のうちは、お嬢様にしかわかりません。苦しみは、ほかの人と比べるものではないのです。ですからどうかお嬢様、苦しいときは苦しいとおっしゃってください。」
礼諒なりあきさん……。」
 そのまま二人は、しばらくだまっていた。いつしか、茉莉花まりかの目からは、涙がこぼれ落ちていた。
 礼諒なりあきは、茉莉花まりかに話を聞くと申し出たが、茉莉花まりかが遠慮がちに断ったため、そろそろ部屋を出ることにした。
「ではお嬢様、ごゆっくりお休みくださいませ。せっかくのお休みの日なので、そろそろ勉強も、終わりになさってくださいね。」
 礼諒なりあきが部屋を出た後、茉莉花まりかは勉強を再開したが、すぐに終わらせた。

 翌日の夕方、志歩しほが帰ってきた。茉莉花まりかはほっとした気持ちや、志歩しほの顔をまた見ることができた喜び、夏が過ぎていく切なさなど、いくつもの思いが、心の中で混ざったり、混ざりきらなかったりしていた。
 志歩しほは、手みやげと言って、おみやげ用のお菓子をいくつか持ってきていた。茉莉花まりかは目にしたことのないような包装や、お菓子だった。志歩しほは、おみやげが茉莉花まりかの口に合うか、あまり自信がなさげだった。だが実際に、茉莉花まりかがお菓子を口にすると、いつもとはまた違う、楽しさのにじんだ表情を見せた。志歩しほはそんな茉莉花まりかを見て、大いに胸をなでおろした。
 翌日、いつもの朝の身支度のときに、茉莉花まりか志歩しほに、里帰りの様子を尋ねる。志歩しほはうれしそうに、3日間にあったできごとを、流れる川のように話した。父方と母方、両方の祖父母を招いておこなった、志歩しほのお祝いの食事会。両親や兄との、なにげない会話……。志歩しほの声がはずむのにつられて、茉莉花まりかの気分も高揚していた。
「それでですね。兄が失礼なことを申すのですよ。お嬢様や、他の使用人の方をいじめたりなんかしてないか? って!」
「お兄様、そんなことをおっしゃるのですか? 志歩しほさんは、そんな人ではないのに……。」
 志歩しほの言葉を受けて、少し悲しげな雰囲気を、自分の言葉に載せる茉莉花まりか志歩しほは、どこか申し訳ないような声で、茉莉花まりかに答える。
「いえ、兄も、そこまで本気で申しているわけではないので……。少し冗談が過ぎる性格なのです。」
「そうなんですか?」
「ええ。ですからわたし、言い返してやりましたよ。一宮いちのみや家でそんなことをしたら、即解雇だよ、って。人間関係の問題には厳しいから、って。つまり今わたしが一宮いちのみや家で仕えさせてもらえているのは、そういうことだよ、って申したのです。そうしたら、すごく謝られてしまいましたけどね……。」
「なんだかんだで、いいお兄様なんですね。わたし、きょうだいの感覚がわからないので、とても新鮮です。」
 たわいのない会話ではあったが、そのたわいのなさを、二人とも楽しんでいるようだった。

 礼諒なりあき志歩しほの休暇が一段落すると、茉莉花まりかはふたたび、勉強中心の生活へと戻っていった。家庭教師にも、志歩しほの休暇のあいだは休んでもらっていたが、週4日来てもらうのを再開した。以前にもまして、勉強の量や時間が多くなっているようだった。礼諒なりあき志歩しほは、茉莉花まりかの体調が不安になっていった。それぞれが、茉莉花まりかの部屋に行くときに、茉莉花まりかに体調について尋ねるのだが、やはり茉莉花まりかは、自分のつらさを口にすることはなかった。
 夏休みも終わりに近づいたその日、家庭教師から、急用で休むと連絡があった。礼諒なりあき茉莉花まりかの部屋に行き、そのことを伝えた。
「わかったわ。ありがとう、礼諒なりあきさん。では今日は一人で勉強しなくてはいけないわね。」
 さっそく、自分の部屋の机に向かおうとする茉莉花まりか礼諒なりあきは思い切って、茉莉花まりかに声をかける。
「お嬢様、もしよろしければ、今日はわたしと一緒に勉強しませんか?」
「えっ……。礼諒なりあきさんと一緒に?」
「はい。たまにはわたしと勉強するのも、ご気分が変わって、勉強がはかどるかもしれませんし……。」
 礼諒なりあきの言葉に、戸惑う茉莉花まりか。正直に言うと、礼諒なりあきと一緒に勉強したい気持ちは大きかった。どんな形でも、一分一秒でも長く、礼諒なりあきと一緒にいられるのなら、どんなに幸せなことだろうか。だが、それがかえって、勉強のさまたげになっている自覚があった。だからこそ、この夏休み、礼諒なりあきに誘われても、ずっと断っていた。そうはいっても、それがまた、礼諒なりあきを傷つけているかもしれないという葛藤もあった。
「いえその、お嬢様のご都合が悪ければ、無理にとは申しませんので……。」
 どこか寂しげな顔をすると、礼諒なりあきは向きを変え、部屋を出ようする。その瞬間、茉莉花まりかは叫んでいた。
「きょ、今日は一緒に勉強しましょう!」
 茉莉花まりかの声と内容に驚いた礼諒なりあきだったが、茉莉花まりかのほうへ振り向くと、微笑んだ。
「ではお嬢様、学習室へまいりましょう。」
 二人は学習室へ行き、勉強を始めた。だがしばらく経ったあるとき、礼諒なりあき茉莉花まりかが、気分が悪そうにしていることに気がついた。
「お嬢様、なんだかご気分が悪く見えるのですが、大丈夫ですか? もう今日はおやめになったほうが……。」
「いえ、大丈夫よ。このまま続けるわ。」
 礼諒なりあきの言葉をさえぎるように、茉莉花まりかは答えると、微笑んでみせた。
「そうですか……。ですがお嬢様、ご気分が悪くなられましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね。その時点で終わりにしましょう。」
 礼諒なりあきが言ったことに小さくうなずくと、茉莉花まりかはそのまま勉強を続けた。
 昼食は、茉莉花まりかの希望で、二人でダイニングで軽食をとった。ときどき5分程度の休憩を入れつつも、ほとんどずっと勉強していた。礼諒なりあきは、茉莉花まりかのペースについていくのに必死だった。
 夕方5時半をすぎ、礼諒なりあきは夕食の準備をしに行かなければならなくなった。二人は学習室を出、礼諒なりあき茉莉花まりかを部屋まで送っていった。
「ではお嬢様、夕食の準備ができたら、お呼びします。」
 礼諒なりあき茉莉花まりかにそう言うと、ダイニングへと向かっていった。
 茉莉花まりかは部屋に入ると、机に向かって勉強の続きを開始した。どこか熱っぽさを感じたものの、この程度は、と思い直し、ひたすら問題を問いていた。
 しばらくすると志歩しほが、夕食の準備ができたと、茉莉花まりかを呼びにきた。茉莉花まりかは勉強道具を軽く片づけて立ち上がったが、どこか足がふらついている。志歩しほ茉莉花まりかが心配になり、今日は夕食をとるのをやめるか尋ねた。だが茉莉花まりかは、料理人に悪いからという理由で、食べると答えた。
 ダイニングに行くと、重元しげもと桜子さくらこ、二人それぞれの世話係がそろっていた。吉川よしかわ礼諒なりあきも、給仕の準備をしていた。茉莉花まりかも席につこうとする。それなのに、体が思うように動かない。どことなく、視界がぼやけている気がする。それでもなんとか、引かれたいすに手を置こうとした、その瞬間――。
茉莉花まりか!?」
「お嬢様!」
 大きな音がしたと思うと、茉莉花まりかが床に倒れ込んでいた。志歩しほが慌てて、茉莉花まりかを抱き起こす。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
 志歩しほ茉莉花まりかのおでこに手を当ててみた。
「すごい熱ですわ! やっぱり、今晩はお休みにならないと……!」
吉川よしかわ、お医者様をお呼びして!」
 志歩しほ桜子さくらこは、うろたえと冷静のはざまで混乱していた。吉川よしかわは急いで、かかりつけの医師に電話をかけにいった。重元しげもとは、桜子さくらこを落ち着かせようと、桜子さくらこのそばに行った。礼諒なりあきはこの状況に何もできず、立ち尽くすしかなかった。
 茉莉花まりかは息が上がり、顔色も悪くなっていた。今自分がどうなっているのか、何も考えられなくなっていた。