一生、お仕えします その7

第7話 お嬢様に贈り物を

「まったく礼諒なりあき、今日はずっとお嬢様と一緒にいたというのに、何をやっているのだ!」
 ダイニングに、吉川よしかわの怒鳴り声が響く。先ほどの混乱も一段落し、夕食の片づけも終わって、今ダイニングにいるのは礼諒なりあき吉川よしかわだけだった。だが、ダイニングの隣の台所では、家事人かじにんがまだ片づけをおこなっている。台所にまで響く吉川よしかわの声に、家事人たちのあいだには、緊張の空気が漂っていた。
「申し訳ありません、吉川よしかわ様。ですが、お嬢様が勉強を、と望まれたので……。」
「いくらお嬢様がお望みでも、体調が悪そうになさっていたら、おめするのが筋であろう! お嬢様のお体に何かあったり、ましてや命にかかわったりでもしたら、どう責任を取るのだ!」
 吉川よしかわの言葉が、体中に深く突き刺さる。礼諒なりあきは顔を上げることができず、ただその場で縮こまるしかなかった。
「だがまあ、致し方ない。おまえはまだ17歳であるし、執事も見習いの身だ。判断力が追いつかないこともあるだろう。今回のことを忘れずに、今後は気をつけなさい。」
 吉川よしかわはやや冷静さを取り戻したような声になり、礼諒なりあきを諭した。
 その後吉川よしかわは、別の仕事のために、その場所へと赴いていった。礼諒なりあきは、今夜は茉莉花まりかへお茶を持っていく仕事がなくなったため、部屋へ戻り、大学受験の勉強をすることにした。
 勉強をしつつ、礼諒なりあきは今日のことについて、あれこれと考えをめぐらせていた。主人である茉莉花まりかの望みには、できる限り応えるのが、執事見習いである自分の務めだと思って、日々仕事をこなしていた。だがそれが裏目に出てしまった。茉莉花まりかの我慢強い性格を知っていながら、その先を行くことができず、かえって茉莉花まりかをつらい目にあわせてしまったのだ。今回のことが原因で、重元しげもと桜子さくらこ吉川よしかわはもちろん、もしかすると茉莉花まりかからの信頼も失ってしまったかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎり、礼諒なりあきは思わず、自分の着ている服を強くにぎりしめた。吉川よしかわは、「今後は」と言っていたが、茉莉花まりかのそばにいられなくなる可能性も浮かび、事の重大さに、頭を抱えていた。

 茉莉花まりかは部屋の自分の布団で、ずっと眠っていた。医師によると、数日間安静にしていれば、熱は下がるし、体力も回復するだろう、とのことだった。体調がよくなるまで、毎日茉莉花まりかのことをにくることになった。
 そうして3日ほどすると、以前よりは熱も下がり、少しずつ、楽に感じるようになってきた。ときどき目が覚めては、ぼんやりと何か考え事をしているようだった。
 その日の診察が終わり、医師が帰ってしばらくすると、桜子さくらこ茉莉花まりかの部屋へ、様子を見に入ってきた。桜子さくらこは、布団――茉莉花まりかが寝ているのはベッドだが――の近くにあるいすに腰掛けると、茉莉花まりかに話しかけた。
茉莉花まりか、今、体調はどんな感じ?」
「お母様……。だんだん、つらい感じが少なくなってきたわ。」
 横になったまま、茉莉花まりか桜子さくらこの顔を見て、答える。
「それならよかったわ。お医者様によると、以前よりも熱も下がってきているようだし、ひとまず安心ね。このまま安静にして、完治させなさい。」
 桜子さくらこが、穏やかな態度で、茉莉花まりかに言う。だが茉莉花まりかは、少し不安になったようだった。
「でもそれでは、勉強ができないわ。」
「今は勉強のことは考えなくていいから。体を治すことに専念するのよ。」
「でも、お母様……。」
 茉莉花まりかは、休み明けの試験の心配をしていた。必ずや1位を取る、そのために夏休み中、ずっと勉強してきた。それが水の泡になってしまうかもしれないと思うと、どうしようもなくやりきれない思いが、頭の中を駆け回る。
「ねえ、茉莉花まりか。」
 ふと桜子さくらこが、真面目な顔つきになる。声も少し、先ほどよりは低く感じられた。
「がんばることはもちろんいいことよ。でも、無理してまでするのはよくないわ。まわりの人に、かえって迷惑をかけることもあるのよ。」
 「迷惑」という言葉に、茉莉花まりかはどきりとした。桜子さくらこは続ける。
礼諒なりあきも、吉川よしかわに怒られていたわ。」
「え……。礼諒なりあきさんが……?」
 礼諒なりあきの名前と、起こったできごとに反応する茉莉花まりか。また熱が上がってしまいそうだった。
茉莉花まりか、人の上に立つ者には、それなりの責任があるのよ。使用人たちが茉莉花まりかのために働いてくれるように、茉莉花まりかも使用人たちのために、主人として果たさなければならない責任、というものがあるの。」
 茉莉花まりかは何も言うことができず、ただ桜子さくらこの言葉を、だまって聞いていた。
「だから、そのためにしなければならないことの一つは、自分の体調には自分でもしっかりと気を使って、つらいときは休むの。なんでも一人で抱え込んだりしないで、頼めることは頼むのよ。そうすることで、相手への信頼というものも示せるわ。」
「お母様……。」
 茉莉花まりかはしょんぼりとした表情になったかと思うと、桜子さくらこのいるほうとは反対側に体を向けた。桜子さくらこははっとして、言いすぎたという後悔を感じたようだった。
「まだ完全に治っていないというのに、悪かったわね、茉莉花まりか。とにかくゆっくり休みなさい。後で志歩しほが、お水かお茶を持ってくると思うわ。」
 そう言うと、桜子さくらこはいすから立ち、静かに部屋を出ていった。
 茉莉花まりかはふたたび体の向きを変え、部屋から出ていく桜子さくらこの後ろ姿を眺めた。桜子さくらこが完全に外に出たことを確認すると、小さな声でつぶやいた。
「お水を持ってきてくださるのが、志歩しほさんで良かったわ……。」
 基本的に、水やお茶を茉莉花まりかの部屋に持ってくるのは、礼諒なりあきの仕事である。そのため本来ならば、後ほど水かお茶を持ってくるのは、礼諒なりあきのはずだった――もっとも、単に礼諒なりあきが休暇の日という可能性も考えたが――。いつもなら、礼諒なりあき以外の者が飲み物を持ってくると、茉莉花まりかはその者に申し訳ないと思いながらも、どこか寂しい気持ちになる。だが今日は、寂しいという思いもありながらも、ほっとした気持ちのほうが勝ち、それがまた、礼諒なりあきへの罪悪感のようなものも感じさせていた。そうは言っても、さっき桜子さくらこに、あんなことを聞いたばかりでは、礼諒なりあきに合わせる顔がない。自分さえ我慢すればいい、他の者に迷惑はかけられない――そう思っての行動が、かえってよくない結果を招いてしまうという浅はかさに、茉莉花まりかはいたたまれなくなった。
 そんなことを考えているうちに、少し頭が痛くなってきた気がした。まだ体力が完全に回復していない状態で、陰うつな思考を巡らせるのは、心にも体にも、かなり負担がかかるようだった。志歩しほが来るまでのあいだ、茉莉花まりかは目をつぶり、何も考えないことにした。

 少しずつ茉莉花まりかの体力は回復し、夏休みも最終日になると、ほとんど熱も下がり、普通の食事もできるようになった。まだ、完全に元気、とはいかないが、翌日から学校に行くのには問題はないようだった。茉莉花まりかは始業式の日から、通常どおり学校に通うことにした。
 始業式の翌日には、例の夏休み明けの試験があった。茉莉花まりかは数日間勉強できなかったうえに、病み上がりという、試験には不利な条件がそろってしまい、不安を感じていた。
 また翌日の、帰りのホームルーム時に、答案はすべて返却され、試験結果が印刷された紙も配られた。案の定、茉莉花まりかの不安は的中する。結果の紙の、「総合順位」のところに表示された数字を見た茉莉花まりかは、うなだれる気力さえ失っていた。
「順位がふたけただなんて、初めてだわ……。」
 茉莉花まりかは密かにつぶやいた。
 学校が終わって、一宮いちのみや家の屋敷に帰り、夜になると、いつも通り礼諒なりあきが、茉莉花まりかの部屋にお茶を持ってきた。
 茉莉花まりかはお茶をゆっくりと飲み干すと、試験の結果について話し始めた。まず礼諒なりあきに、試験結果の紙を見せ、「総合順位」のあたりを指さした。
 「10」という数字が、礼諒なりあきの目に飛び込んできた。礼諒なりあきはおそるおそる、口を開く。
「えっ、あの、それは本当に、お嬢様の試験結果の紙ですか……?」
「ええ、正真正銘、わたしのものよ。一宮いちのみや茉莉花まりか、と名前も印刷されているし、出席番号だって合っているし、点数も間違いないもの。」
 茉莉花まりかはふっとため息をつくと、小さな声で、独り言のように言った。
「なんでも、ただがんばれば、時間をかければいいというものでもないのね……。」
 礼諒なりあきはどう答えるか、答えに詰まった。そもそも礼諒なりあきは、10位という順位を取ったことはなかった。成績はそれなりにいいものの、たいてい15位が限界点で、12位くらいを取れば、それは奇跡と呼んでもいいくらいだった。礼諒なりあきから見ると、10位でも、純粋にすごい順位だと思える。しかし、1位から3位で当然とされている茉莉花まりかからすれば、取ってはならない順位だということもわかっていた。ましてや、期末試験の結果の悪さを返上しようと、ひたすら勉強に励んでいた夏休みの茉莉花まりかの様子を、ずっと近くで見ていただけに、下手に慰めの言葉をかけようものなら、茉莉花まりかが心を閉ざしてしまうという恐怖も感じていた。
 しばらく、二人のあいだには、緊張のような空気が流れていたが、やがて茉莉花まりかが、申し訳なさそうに言った。
「本当にわたし、何をやっているのかしら。せっかく、夏休みに礼諒なりあきさんや志歩しほさんが、わたしが休めるようにしてくださったのに、そのお心遣いを無にしてしまうなんて……。試験結果もこのありさまだし、どうしようもないわ。」
 礼諒なりあきはまだ無言のまま、体の前に置いた手で、無意識に着ている服の布地をつかみ、少し下を向いていた。茉莉花まりかが続ける。
「ただ無にしたというだけでなく、わたしのせいで、礼諒なりあきさんを巻き込んでしまったわ。」
「え……。巻き込んだ、とは?」
 ふいに、疑問が口をついた。礼諒なりあき茉莉花まりかの言葉の意図を読めず、顔を上げて茉莉花まりかのほうを見た。茉莉花まりかはまっすぐに礼諒なりあきのほうを向きながらも、憂いを帯びた瞳で礼諒なりあきを見ている。茉莉花まりかは少し息を吐くと、また吸ってから、一気に言葉を口にした。
礼諒なりあきさん、わたしが倒れた日、吉川よしかわさんに怒られたのよね?」
 茉莉花まりかの突然の言葉に、驚く礼諒なりあき吉川よしかわの声が脳裏によみがえり、鼓動も速くなっていく。
「なぜそれを、ご存じなのですか?」
「お母様から聞いたの。」
 茉莉花まりかは悲しげな顔で続ける。
「お母様に言われたの。人の上に立つ者には、それなりの責任がある、って。本当にその通りよね。主人のせいで、使用人が怒られるなんて、あってはならないことだわ。今回のことは、申し訳なかったわ。本当にごめんなさい。わたしが、もっとしっかりしないといけないのに……。」
 茉莉花まりかの沈んだ声が作り出す雰囲気に、飲まれてしまいそうになったが、自分の役目と決意を思い出し、礼諒なりあきは申し訳なさそうに言った。
「いえ、お嬢様のせいではありません。わたしが至らないせいでございます。」
「そんなこと……。」
「今回のことは、わたしがもっときちんとお嬢様のご健康に気をつけていれば、防げたはずでした。ですがそれができなかった。執事失格です。解雇されても、文句は言えません。むしろ、責任を取って、わたしが自分からやめるべきなのかもしれません。」
「!?」
 茉莉花まりかは一瞬、驚きで声にならない声が出た。
「そんな、礼諒なりあきさん、解雇だとか、やめるだなんて……。」
 茉莉花まりかは口をぐっと結び、礼諒なりあきを見つめた。意志のこもった瞳に見つめられ、礼諒なりあきは身動きが取れない。
礼諒なりあきさん、わたし、礼諒なりあきさんがどんな失敗をおかしたとしても、礼諒なりあきさんを解雇なんてしないつもりよ。もしどうしても、礼諒なりあきさん自身が純粋にやめたいというのなら、引き留めることはしないけれど……。わたしは礼諒なりあきさんに、ずっとそばにいてほしいの。だから、解雇だとか、責任を取ってやめるだとか、そういうことは言わないでほしいの。」
 まっすぐに、自分の思いをぶつける茉莉花まりか。切実さが伝わってくるようだった。だが礼諒なりあきは、複雑そうな顔を見せ、体の前に置いた手を、固く握りしめた。
「お嬢様、ですが、今は旦那様が……。」
 礼諒なりあきがそっと口を開く。いくら茉莉花まりかが望んでも、重元しげもといなと言えば、叶わぬこともあることを、二人とも充分に理解している。
「わかっているわ。今はお父様に、決める権限があるものね。」
 茉莉花まりかは不安そうな顔になり、下を向くと、そのまま何も言おうとはしなかった。礼諒なりあきは、事務的に、
「それではお嬢様、失礼いたします。今夜もごゆっくりお休みくださいませ。」
とだけ言うと、茉莉花まりかの飲んだグラスを持って、足早に部屋を出た。

 一時は解雇されることも想定した礼諒なりあきだったが、重元しげもとに少し注意され、今後気をつけるようにとの指示があるのみだった。礼諒なりあきはほっとした気持ちと、ますます気を引き締めていかなければならない緊張感とで、心がかき乱されていた。
 夏休み明けの試験も一段落した学校では、ふたたびいつも通りの授業がおこなわれていた。夏の疲れもあるものの、授業が始まって何日もすれば、いつしかその雰囲気には慣れることができる。生徒の多くは受験生であるゆえ、授業への取り組みも真剣なものだった。
 だが礼諒なりあきは、授業中の茉莉花まりかの様子が気になっているようだった。執事見習いとして、茉莉花まりかにも気を配る必要があるとはいえ、自分の勉強もおろそかになるのでは、という危惧を抱くほどだった。
 その日、屋敷に帰った後、茉莉花まりかは自室で、礼諒なりあきは学習室で、それぞれ勉強していた。今日は、礼諒なりあきは夕食まで少し休憩時間があり、調べ物をするため、コンピューターや、豊富な種類の辞書や本のある、学習室を利用していた。
 ふと、志歩しほが学習室に入ってきた。礼諒なりあきはドアの音に振り向き、志歩しほの姿を認識した。志歩しほ礼諒なりあきを見るなり、即座に声をかけた。
「あら、礼諒なりあきさん、今日はここで勉強ですか?」
「はい。ちょっと調べたいことがあったので。」
「そうなんですね。このお部屋、とても便利ですよね。」
 志歩しほが穏やかな微笑みを見せる。その表情に、礼諒なりあきの顔もふっとゆるんだものの、少しすると、どこか憂うつそうな雰囲気を見せた。志歩しほはそれに気づくと、心配そうに声をかけた。
礼諒なりあきさん、何かお悩みでもあるのですか?」
「はい。お嬢様のことで……。」
 礼諒なりあきは、最近の茉莉花まりかの様子について、話を切り出す。
「最近、授業中、お嬢様が、どうもうわの空でいらっしゃるのです。とても心配で……。」
「具体的に、どんなご様子でいらっしゃるのですか?」
「見た感じでは、あまり授業が頭に入っていないような、ぼんやりした感じでいらっしゃって……。顕著なのは、外国語の授業です。先生に音読を当てられて、いつもなら、すらすらと発音なさるのに、びっくりするほどたどたどしくお読みになられて……。先生も驚いて、お嬢様を途中でめて、他の方を当てていましたし、級友もみんな、どうしたの?と声をかけるくらいなのです。」
「まあ……。」
 志歩しほは言葉を失ったようだった。先ほどの穏やかな笑みは消え、沈んだ空気に包まれている。
「やはり、わたしのせいなのでしょうか……。わたしがきちんと、お嬢様のご様子について、目をお配りしていれば……。」
 礼諒なりあきが、重々しく口にする。
「そんな、礼諒なりあきさんのせいではありませんわ。わたしもついていながら、お嬢様をおめすることができなかったのは事実ですし……。」
 志歩しほも、今回の件について、後悔の念に駆られているようだった。
「せめて、少しでもお嬢様を元気づけることができればいいのですが……。執事見習いとして、わたしにできることはあるでしょうか……。」
 礼諒なりあきが、ふとつぶやく。その言葉に、志歩しほは少しだけ口角を上げ、答える。
「まずは日々、精いっぱいお嬢様にお尽くししましょう。その中で、お嬢様のために特別にして差し上げることも、思いつくかもしれませんわ。」
 礼諒なりあきはだまったまま、大きくうなずいた。
 その日の夜、礼諒なりあきはいつものように茉莉花まりかの部屋にお茶を持っていった。茉莉花まりかとはあまり会話はなく、早めに部屋を出た。
 下げたお茶のグラスを持って、台所に行くと、吉川よしかわがいた。吉川よしかわは、礼諒なりあきを見るなり、ちょうどよかったとばかりに、話しかける。
礼諒なりあき、ちょっと気が早いが、来月のお嬢様のお誕生日会についての仕事の話があるんだが、いいか?」
「はい、吉川よしかわ様。なんでございましょう。」
「今年はお嬢様も18歳になられるということで、規模も大きく、招待客も多くなる。去年やおととしよりも準備の手間がかかるが、心しておいてほしい。」
 吉川よしかわが淡々と、仕事の用件を述べる。
「はい、承知いたしました。」
「頼んだぞ。しかし礼諒なりあきも受験生だというのに、こういう仕事にまで時間を取らせてしまって、悪いな。」
 いつもは厳しい吉川よしかわが、ふと優しい親のような一面を見せる。吉川よしかわは結婚しておらず、子どももいないが、礼諒なりあきのことは、部下としてだけではなく、子どものように思っている面もあるようだった。
「いえ、そんなことはありません。受験勉強とは違う頭を使うので、頭が活性化される感じで、執事の仕事と勉強、それぞれにいい影響を与え合っている気がするのです。」
 礼諒なりあきが明るく答える。
「なるほど、立派だな、礼諒なりあき。まあそれはともかく、なるべく受験勉強に時間を割けるようには考えておくからな。」
「お気遣いありがとうございます、吉川よしかわ様。」
 礼諒なりあきは深々と頭を下げた。
 仕事の話をしながら、礼諒なりあきは、去年とおととしの、茉莉花まりかの誕生日会のことを思い出していた。豪華なドレスと食事、テーブルの装飾に、出席者からのお祝いの言葉。一見、華やかで、幸福感にあふれて見える。
 だが茉莉花まりかの執事として、給仕したり、そばで控えていたりした礼諒なりあきの目には、すべてがうわべだけの幸福に映っていた。茉莉花まりかはあまり笑顔を見せず、またときどき見せた笑顔は、どこか作り物のように感じられた。礼諒なりあきには、果たして茉莉花まりかにとって、この誕生日会が心からうれしいものなのか、疑問を抱いていた。とはいえ、一宮いちのみや家のしきたりとして、決められた形式で、誕生日会をおこなうことになっている。異論を唱えることなど、できなかった。
 そうやってとりとめもなく、考えを巡らせていると、あるときすべてがつながったように、一つの考えが頭の中に浮かんだ。
 礼諒なりあきは無意識に、口角がかなり上がっていた。はたと気づいて慌てて口角を下げたが、吉川よしかわは今、礼諒なりあきと別のほうを向いていて、気づかれてはいないようだった。
 翌日、礼諒なりあきが屋敷内でたまたま志歩しほに会ったとき、まわりには誰もいなかったので、思いついた考えを話した。
 志歩しほは賛成したが、具体的な内容については、茉莉花まりかの誕生日あたりまでに決めることにした。――二人は、一宮いちのみや家のしきたりとしての誕生日会とは別に、使用人として、茉莉花まりかに誕生日の贈り物をすることにした。
 2年以上、茉莉花まりかに仕え、茉莉花まりかの好みもそれなりに把握している礼諒なりあきだったが、「誕生日の贈り物」として茉莉花まりかが喜ぶものは何か、考えあぐねていた。

 しばらくは授業中にうわの空だった茉莉花まりかも、日が経つにつれ、少しずつ調子を取り戻してきているようだった。
 授業に集中し、ノートもしっかりと取っていた。礼諒なりあきがその日の授業内容について確認すると、だいたい理解した、とわかるような返答をしていた。外国語の授業で、先生が試しに茉莉花まりかに音読するよう当てると、ほとんどいつものような、滑らかな発音が教室中に響いた。
 礼諒なりあきは一安心しつつも、今まで通り、茉莉花まりかの様子には気を配ることにした。茉莉花まりかの我慢強い性格を理解している礼諒なりあきにとっては、今の状況も、無理して作っている可能性も考えられるからだった。
 その日の放課後、いつも茉莉花まりかといる級友の女子生徒たちが、集まって話をしていた。翌日は休日で、一緒に街へ出かける計画について、話しているようだった。
 茉莉花まりかはなんとなく、女子生徒たちと一緒にいて、横でだまって話を聞いていた。あるとき、一人の女子生徒が、茉莉花まりかに気づき、話しかけた。
「えっと、一宮いちのみやさんは、来られないんだよね?」
「ええ、ごめんなさい。いつも申し訳ないわね、一緒に遊んだりできなくて……。」
 茉莉花まりかが残念そうに言う。女子生徒は、茉莉花まりかが来られないことに、特に気にした様子はなく、かえって自分たちのほうが申し訳ないというような態度を見せる。
「ううん、気にしないでね。そろそろ、一宮いちのみやさんのおうちの事情もわかってきたし。」
「恐縮するわ。」
「ねえ一宮いちのみやさん、よかったらおみやげでも買ってこようか?」
「いえ、そんな気を使ってくださらなくて大丈夫よ。そのかわり、おみやげ話を聞かせてくださる?」
 茉莉花まりかはにこやかに言った。女子生徒も、申し訳なさがほぐれたようで、楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、そうするね。」
「ええ、楽しんできてね。」
 しばらくすると、女子生徒たちは教室を出ていった。茉莉花まりかは後ろ姿が見えなくなるまで手を振ると、自分も帰るため、礼諒なりあきのところへ行った。
「お嬢様、失礼ながら……他の方が遊びに行く計画をお耳に入れられるのは、かまわないのですか?」
 女子生徒たちの会話が聞こえていた礼諒なりあきは、少し不安そうに、茉莉花まりかに尋ねる。
「ええ、楽しそうだもの。少しでも、雰囲気を味わいたいわ。」
 茉莉花まりかはにっこりと笑ったかと思うと、すぐに寂しげな顔になり、深くため息をついた。
「本当は、わたしも一緒に遊びに行けたらいいのだけれど……。ああやって好きなときに好きなところに行けるというのは、なんともうらやましいものね。」
 ふだんは出さない自分の思いを見せた茉莉花まりかだったが、すぐに態度を切り替えると、なんともないような声で言った。
「では礼諒なりあきさん、帰りましょう。」
 だが礼諒なりあきは少し考え事をしていたようで、茉莉花まりかの言葉には反応しなかった。
礼諒なりあきさん?」
 茉莉花まりかがもう一度声をかけると、礼諒なりあきははっとして、
「あ、も、申し訳ありません、お嬢様。それでは帰りましょう。」
と言った。二人は、いつも吉川よしかわを待っている場所へと歩いていった。

「お嬢様へのお誕生日の贈り物は、街歩きでいかがでしょうか?」
「街歩き、ですか?」
 屋敷に帰った後、礼諒なりあきは学習室で、志歩しほに提案する。
「はい。お嬢様のお好きなお店や、ご覧になりたい場所に、ご自由に行っていただくのです。もちろん、わたしたちがおともする、ということで。」
 礼諒なりあきははやる気持ちを抑えきれず、声はやや高くなり、体の動きも大きくなっていた。座っているいすから、体がはみ出しかけていた。
「今日、お嬢様がおっしゃったことを聞いて、思いついたのです。お嬢様はいつも、決まったお店にしか行けない。ですからご自由に、お好きなところに行けるというのは、一番うれしいことなのではないでしょうか。」
「まあ、それはお嬢様も、とても喜ばれると思いますわ。でも……。」
 志歩しほは無邪気な笑みを見せつつも、不安の色が見え隠れする。礼諒なりあき志歩しほの不安を読み取り、ふと手に力が入る。
「旦那様が、お許しくださるかどうかが問題ですわね……。」
 「旦那様」という言葉に、思わず肩がこわばる礼諒なりあき。つい、茉莉花まりかのことだけを考えていたが、現在当主である重元しげもとの許可をもらわないことには、この贈り物も不可能だった。
 だが、決めたからにはやり遂げるしかない。主人の望みを把握し、完璧に実行するのが良き執事の条件だとするならば、当主の許可など、低いハードルにしなければならなかった。
 礼諒なりあきは覚悟の気持ちを込め、志歩しほに宣言する。
「確かに、旦那様の許しが得られるかは、わたしも不安です。ですがお嬢様のために、なんとしてでも説得し、許可をいただきます。」
 礼諒なりあきの全身から伝わってくる真剣さに、志歩しほも思わずうなずき、返した。
「ええ、必ずや、お許しをいただきましょう。わたしも一緒に、旦那様のところへうかがいますわ。」
 礼諒なりあきの顔が、晴れたようになった。力を入れていた手をほどき、いすから軽く身を乗り出し、頭を深々と下げた。
「ありがとうございます、志歩しほさん。」
 二人はいすから立ち上がり、ゆっくりと学習室のドアを開けると、重元しげもとが今いるであろう場所へ向かって歩き始めた。