一生、お仕えします その8

第8話 待ち遠しい

 学習室を出た礼諒なりあき志歩しほは、「執務室しつむしつ」へと向かった。重元しげもと桜子さくらこ吉川よしかわが、一宮いちのみや家の屋敷で仕事をするときに使う部屋だった。二人の主人は茉莉花まりかであるため、仕事中の重元しげもとたちに用事があることはあまりなく、執務室に入ったことも、数えるほどしかない。将来、茉莉花まりかが当主になれば、特に礼諒なりあきはよく出入りすることになる部屋ではあるが、今は気軽に入れるような場所ではなかった。
 重い足取りで、ゆっくりと執務室へと歩く、礼諒なりあき志歩しほ。部屋の前まで来ると、しばらくその場に立ち止まり、何度も深呼吸をした。
 ようやく準備が整うと、礼諒なりあき志歩しほは顔を見合わせ、無言で合図を送り合った。
 礼諒なりあきが、部屋のドアを軽くたたく。
「失礼します。礼諒なりあき志歩しほでございます。旦那様、今、少しお時間よろしいでしょうか。」
 少しの間の後、ゆっくりとドアが開いたかと思うと、吉川よしかわが立っていた。
「どんな用事だ?」
 礼諒なりあきは、吉川よしかわのいつものけわしさに、一瞬ひるんだが、自分が宣言したことを思い出し、はっきりとした声で言った。
「お嬢様のことについて、お願いしたいことがございます。」
 吉川よしかわは少し考えていたが、
「わかった。とりあえず話を聞くから、部屋に入りなさい。」
と言って、二人を部屋に入れた。
 部屋には今、吉川よしかわ重元しげもとがいた。重元しげもとは、部屋の机に座って仕事をしている。
 礼諒なりあき志歩しほ重元しげもとの前まで来ると、重元しげもとは不思議そうな顔をして、二人を見た。
「わざわざ二人そろってわたしのところに来るとは、よほどのお願いということか?」
 礼諒なりあきは、体の前に置いた手を強く握ってから、おそるおそる、言葉を発した。
「旦那様、お嬢様に、お誕生日の贈り物として、街歩きにお連れさせていただけませんか?」
茉莉花まりかの誕生日の贈り物、とな?」
「はい。使用人として出すぎたまねであることは、充分に承知しております。ですが、今のお嬢様は、やはりどこか元気がおありではありません。わたしと志歩しほさんで、楽しい時間をご提供して、お嬢様を元気にして差し上げたいのです。」
 頭の中に浮かんだ言葉を、一からひたすら口にして説明する礼諒なりあき。声にはあせりのような、どことなく必死さを感じさせる色がにじんでいた。
「なるほど、主旨は理解した。だが、誕生日の贈り物というなら、誕生日会がある。わざわざそなたたちが、茉莉花まりかに贈り物をする意図はなんだ? そもそも茉莉花まりかが望んでいることなのか? 個人的な好意の押し付けは不可だぞ。」
「えっと、それは、その……。」
 重元しげもとからの想定外の質問に、答えに詰まる礼諒なりあき。しどろもどろになり、口はただ、音を伴わずに動くのみだった。
 重元しげもとの質問通り、茉莉花まりかには「誕生日会」という贈り物がなされている。とはいえ礼諒なりあきにとっては、茉莉花まりかが誕生日会で満足しているようには思えない。だがそれを言うということは、一宮いちのみや家のしきたりに異を唱えることになり、とても口にすることなどできなかった。
「い、いつもとは変化をつけるためですわ!」
 ふと、志歩しほが大きい声で言った。
「行き詰まったときは、新しいことをしてみると、解決策が見つかると申します。ですから、お誕生日の贈り物として、お屋敷でのお誕生日会とは別のことをすることで、新鮮さを味わえます。それから、お誕生日会は『してもらう』立場ですが、自分から行きたいところを提案する立場になるというのも、お嬢様にとっては良い経験だと思いますの。」
 志歩しほは、先ほどの礼諒なりあきの様子に思うところがあったのか、どこか言葉を選びつつ、一気にたたみかけた。
 少しの沈黙の後、重元しげもとが口を開く。考えがまとまったようだった。
「……わかった。いいだろう。茉莉花まりかの好きなところに、おともしなさい。」
「本当ですか? ありがとうございます!」
 礼諒なりあきはにわかに笑顔になり、やや興奮したような声で返した。
「ただし!」
 そう言うと、重元しげもとが少しけわしい顔になった。礼諒なりあき志歩しほは、思わず背筋が伸びる。
吉川よしかわにも同行してもらう。どちらにせよ、車で移動するのがいいだろうし、安全上の問題からも、保護者が必要だからな。あとは茉莉花まりか本人に、どうしたいか聞きなさい。」
「承知いたしました、旦那様。」
 礼諒なりあきは手を強く握ると、軽く頭を下げた。顔には緊張が見え隠れしていた。
 重元しげもとへの話が終わり、執務室を出た礼諒なりあき志歩しほは、しばらく無言で並んで歩いていた。あるときふと礼諒なりあきが立ち止まると、大きく息を吐いた。
「ああ、よかった、旦那様の許可が出て。」
 志歩しほも立ち止まり、礼諒なりあきに答えた。
「本当ですわ。これで一安心ですね。」
 礼諒なりあきは笑顔で志歩しほを見た。
「本当に、志歩しほさんのおかげです。助け舟を出してくださったおかげで……。このご恩は、一生忘れません。」
「いえそんな、わたしはたいしたことはしていませんわ。旦那様は、礼諒なりあきさんの熱意に負けられたのですよ。」
 志歩しほも微笑むと、胸の前で手を軽く握った。
「あとは、お嬢様にお知らせするだけですわね。」

 その日の夜、礼諒なりあきはいつも通り、茉莉花まりかの部屋にお茶を持っていった。志歩しほも一緒に部屋へと入っていった。
「あれ、志歩しほさん、どうしたのですか?」
 夜のお茶の時間に、礼諒なりあき志歩しほが一緒に来ることはないため、志歩しほを見た茉莉花まりかは、目を丸くする。
 礼諒なりあきがお茶をいでいるあいだ、志歩しほはうれしそうに、茉莉花まりかに説明する。
「お嬢様、とてもいいお知らせがありますのよ。礼諒なりあきさんからお話ししますわ。」
 礼諒なりあき茉莉花まりかにお茶を出すと、話を切り出した。
「お嬢様、わたしと志歩しほさんから、お誕生日の贈り物として、お好きな1日に、街歩きをお贈りいたします。」
「街歩き?」
「はい。その日は、お嬢様がご覧になりたいお店に、ご自由にお行きください。わたしと志歩しほさん、それから吉川よしかわ様が、どこへでもおともいたします。旦那様のお許しもいただきました。」
「本当に? どこでも好きなところへ行っていいの?」
 茉莉花まりかの顔が、みるみる明るくなっていく。1学期の期末試験のあたりからずっと、見ることはなかった笑顔だった。
「ええ、そうですわ、お嬢様。いっさいの制限なく、お嬢様が心からお行きになりたいところに行けますよ。」
「なんだか夢みたい……。」
 無邪気な子どものように、はしゃぐ茉莉花まりか礼諒なりあき志歩しほは、ほっとした様子で茉莉花まりかを見つめていた。
 だがふと茉莉花まりかが、困ったように言った。
「でも、わたし、好きなお店と言われても、どういうところがあるか知らないわ。」
 礼諒なりあきがすぐに答える。
「では、級友の方々にお聞きになってはいかがでしょう?」
「そういえばそうね。きっと、いいお店を教えてくれるわ。さすが礼諒なりあきさん、頭の回転が速いわね。」
 茉莉花まりかはふたたび笑顔になると、礼諒なりあきにその笑顔を向けた。礼諒なりあきはほめられて、頬が少し赤くなっていた。
「それにしても、礼諒なりあきさんと一緒に、好きなお店に行けるなんて、こんなにうれしいことはないわ……。」
 少しはにかみつつ、静かに思いを口にする茉莉花まりか礼諒なりあきは思わず、
「いえ、わたしがお嬢様におともするのは、仕事ですので!」
と、手を振りながら言った。口ではそう言っても、顔は先ほどよりも赤みを増し、鼓動は速くなっていた。
 礼諒なりあきの反応を見て、茉莉花まりかは自分の発言の内容にはっと気づいたのか、慌てて志歩しほのほうを見た。
「あ、志歩しほさん、ごめんなさい! 志歩しほさんとも一緒なのも、とてもうれしいですよ!」
 志歩しほはにっこりと微笑むと、
「お気遣いはいりませんわ、お嬢様。」
と答えた。志歩しほは、茉莉花まりか礼諒なりあきのやり取りを見ながら、何か考えていたようで、悟ったような顔をしていた。
 お茶の時間が終わり、礼諒なりあき志歩しほは、茉莉花まりかの部屋から出た。
礼諒なりあきさん、お嬢様に喜んでいただけて、よかったですわね。」
 志歩しほにそう言われて、礼諒なりあきは、お茶の道具を持ったまま、軽く頭を下げた。
「はい、おかげさまで。いつも本当にありがとうございます。」
「いえ、わたしは何もしていませんわ。」
 少しの会話の後、礼諒なりあきはふとだまる。何か言いたげだったが、言いにくそうにしていた。志歩しほ礼諒なりあきの様子を察し、しばらく待っていた。ようやく、礼諒なりあきが口を開く。
志歩しほさん、実は、もう一つ、わたしからお嬢様に贈り物をしたいと考えているのです。」
「どんなものですか?」
 特にとがめる様子もなく、志歩しほは聞き返す。
「例えば、アクセサリーだとか、小物類だとか、ちょっとした、身につけるものを、と思っているのですが……。」
「まあ、それはいいですわね。お嬢様もお喜びになると思いますわ。」
 笑顔で答える志歩しほに、礼諒なりあきは不安そうな顔で返す。
「でも、本当は、お嬢様にこういう個人的な贈り物をしてはいけないことは、わかっているのですが……。」
 志歩しほも急に、曇り顔になった。
「確かに、本来ならばそうですわね。ですが、お嬢様からうかがったことがあるのです。もうずっと、お誕生日には、ご友人どうしの個人的な贈り物はしていらっしゃらない、と。少なくとも13歳くらいからは、そうらしいですわ。」
「そうなのですか……。」
 沈んだ顔になった礼諒なりあきに、ふたたび笑顔になり、志歩しほは続けた。
「ですから、礼諒なりあきさんが個人的な贈り物をされれば、お嬢様も感激されると思いますよ。」
「そう、ですね……。でも、何をお贈りすれば……。」
「化粧品はいかかでしょう? 身につけるものですし、身につけてしまえば形がないものなので、わかりにくいと思いますわ。」
 志歩しほの笑顔に、礼諒なりあきもつられて、少しずつ晴れやかな顔になりつつ、戸惑いも見え隠れしながら、志歩しほに尋ねる。
「化粧品、よさそうですね。ですがわたしは化粧品には詳しくないので、どういうものをお贈りすればいいのか……。」
「でしたら、わたしが買い物のついでに、お嬢様にお似合いになりそうなものを選んで、買っておきますわ。あとでご予算を教えてくださいね。」
「本当ですか? ありがとうございます。よろしくお願いします。」
 礼諒なりあきは、曇りのない笑顔を見せ、志歩しほに深々と頭を下げた。
 その後、礼諒なりあき志歩しほと別れ、お茶の道具を片づけに行った。

 夏の暑さもいつしかやわらぎ、秋の空気が混じってくる。夜になると、涼しげで澄んだ虫の声が響くようになった。草木は夏の盛りを過ぎ、実りの様相を見せる。背が高く、黄色い花をつける草や、花びらが見た目には8枚の、赤紫の花をつける草、ふわふわの穂をつける草など、何種類もの草が、道端に、空き地に、あらゆるところに根を張っている。
 茉莉花まりかの学校の生徒たちの制服も、半袖だったものが、夏服のワンピースの上にカーディガンを羽織ったり、長袖のシャツを着たりなど、気温やそれぞれの体調に合わせて、服装を調整している。少しずつ、夏のさわやかな色合いから、濃色の落ち着いた色合いへと、切り替わっていく。
 深い実りと、冬への準備を兼ね備えた今の時季、そして茉莉花まりかの級友の多くが受験生であるため、受験勉強もさらに本格化してくる、この時期。茉莉花まりかは夏休みすぎまでとはうって変わって、咲き誇る花のように、笑顔をたたえていた。
 茉莉花まりかの変わりように、級友たちも、休み時間ごとに、密かに憶測を語り合っていた。茉莉花まりかは意に介しないといった態度で、一人で受験勉強に励んでいた。
 とある放課後、茉莉花まりかが帰ろうとしたとき、いつも茉莉花まりかと一緒にいる女子生徒たちが、茉莉花まりかに話しかけてきた。
茉莉花まりかさん、最近とてもうれしそうにしているけど、何かいいことでもおありなの?」
 興味津々で尋ねてくる女子生徒たちに、少し恥ずかしそうにしながら、茉莉花まりかは答えた。
「ええ、実は礼諒なりあきさんが、わたしの誕生日の贈り物として、街歩きに連れて行ってくださることになったの。」
 茉莉花まりかの言葉に、女子生徒たちは驚きを隠せない。その場にいる誰もが色めき立ち、先ほどよりもさらに興味を増して、深くまで尋ねてくる。
「いっ一宮いちのみやさん、ついに笹原ささはらくんとデート?」
 一人の女子生徒が、うれしそうにはしゃぐ。茉莉花まりかは慌てて、
「そ、そんなものではないわ! 礼諒なりあきさんの、執事としてのお仕事だし……。それに志歩しほさんや吉川よしかわさんも一緒なの。」
と、顔を赤らめながら、大きく手を振った。
「なんだ、残念だなあ。」
 「デート?」と尋ねた女子生徒は、茉莉花まりか礼諒なりあきの二人きりではないとわかると、突然、興奮の色合いが消えた。
「やめなさいよ、茉莉花まりかさんに失礼よ。」
 最初に茉莉花まりかに話しかけた女子生徒がたしなめる。二人のやり取りは、恒例のものになってきているようだった。
「ところで、皆さんにお願いがあるの。」
 茉莉花まりかはふと、話題を変える。
「わたしが行きたいお店、好きなところに連れて行ってくださるそうだけれど、わたし、どんなお店があるのか、まるで知らなくて……。もしおすすめがあったら、教えてくださる?」
 どこか不安そうな茉莉花まりかに、女子生徒たちは、
「もちろんいいよ!」
「どんなものをご覧になりたいの?」
と楽しそうに、口々に言った。
 結局、具体的な話は翌日以降にすることになり、茉莉花まりかは今日は帰ることにした。
「ありがとう、皆さん。おかげさまで、いい日にできそうだわ。よろしくお願いするわね。」
 茉莉花まりかは笑顔で女子生徒たちに言うと、別れのあいさつとして軽く手を振り、礼諒なりあきとともに教室を出た。
 茉莉花まりか礼諒なりあきの後ろ姿を見ながら、女子生徒たちは、茉莉花まりかについての話を続けていた。
「ねえねえ、一宮いちのみやさんって、絶対、笹原ささはらくんのこと好きだよね。そもそもあの二人、きっと両思いだよね? おつき合いしたりとか、できないのかなあ。」
 先ほど茉莉花まりかに「デート?」と尋ねた、茉莉花まりかより少し小柄なショートヘアの女子生徒、森本もりもと和奏わかなが、瞳をいきいきと輝かせて言う。恋愛の話が好きであるようだった。
和奏わかなさん、またそういうこと言って。茉莉花まりかさんは親が決めた相手と結婚するって、前も言ったでしょう。」
 和奏わかなの恋愛目線ぶりに、もう一人の――茉莉花まりかよりはやや背の高い、黒髪でストレートのロングヘアの女子生徒、東条とうじょうかつらが、呆れたように返す。
「それは、かつらちゃんの言う通りだけど……。結婚するまでのあいだくらいは、好きな人とおつき合いする自由だって、あってもいいと思うんだけどなあ。笹原ささはらくんとだって、おつき合しちゃえばいいと思うんだよね。」
「何を言っているの。せめて級友の御曹司とならともかく、自分の執事と交際なんて、できるわけないでしょう。そんなことをしたら、執事は即解雇よ。」
 異論をはさませない厳しさで、かつらははっきりと言った。
「でも、小説とか漫画とかドラマなんかでは、お嬢様と執事の禁断の恋、ってのがあるのに。」
「そういうのは、現実にはありえない状況を楽しむものでしょう。実際にそんなことをするなんて、許されないわよ。」
「つまんないなあ。」
 しばらくやりとりをしたのち、かつらが、思い出したように話題を変える。
「ところで、一宮いちのみや家では、18歳くらいで、結婚相手とお見合いというか、顔合わせをなさるらしいわ。茉莉花まりかさんも、もうそろそろではないかしら。」
「そうなんだ。政略結婚ってことだろうし、一宮いちのみやさんの結婚相手って、どんな人なんだろうね? すっごく年上とか?」
 和奏わかなが、どことなく不満そうな顔になる。
茉莉花まりかさんのご両親は、確か1つ違いだったと思うし、それはないのではないかしら?」
 かつらは、安心させるような声で、なだめた。
「そっか。いい人だといいよね。それにしてもかつらちゃん、一宮いちのみやさんのおうちに詳しいよね。一宮いちのみや家マニアなの?」
 和奏わかなが、いたずらっぽく笑って言う。
「わたしは高校3年間はずっと茉莉花まりかさんと同じクラスで、それなりに話していたし、親の仕事の関係で、一宮いちのみや家の話もよく聞くのよ。」
 かつらは、やや不機嫌そうに、和奏わかなを見ながら言った。
「ごめん、かつらちゃん。別に悪い意味で言ったんじゃないよー。」
 和奏わかなは、まずいといった感じで、苦笑しながら謝っていた。

 級友の女子生徒たちから店などのおすすめを聞き、行きたいところもまとまってきた茉莉花まりか。笑顔はさらに増し、授業にも、積極性がますます発揮されるようになってきており、勉強は、かなりはかどっているようだった。級友は、茉莉花まりかの「わかりやすさ」に驚きを見せつつも、喜びがあふれる様子に、安心感や共感を寄せていた。
 街歩きに出かけるのは、中間試験が終わった後の休日に決まった。そのしばらく前の、月の初めごろには、茉莉花まりかの誕生日会がおこなわれる。
 茉莉花まりかにとって、誕生日会は、今までなら、決められた通りに祝われている、という思いしか、湧かないものだった。どんなにお金と手間がかかっていても、結局は一宮いちのみや家の威厳を示しているだけである、という気がしていた。もちろん、自分のために、お金と手間をかけてくれて、多くの人が働いてくれていることに、純粋な感謝の気持ちも持っている。だからこそ、お祝いをどこか受け取りきれていない、自分の心の奥底に対して、罪悪感を抱いていた。笑顔にならなければいけないのに、どうしても、微笑むことすら難しい――。だが、今年はそうではなかった。
 18歳になる茉莉花まりかの誕生日会は、いつもの年より規模も大きく、客もそれなりの数を招いておこなわれていた。澄んだ空気によって生み出された、さわやかさを誘う秋晴れの空の下、にぎやかな声が響く。恒例の、茉莉花まりかのために、型紙パターンから特別に作られたドレスに、テーブルの美しい装飾、そして豪華な料理。
 礼諒なりあき茉莉花まりかの執事として、そばに控え、給仕などをしていた。昨年やおととしの茉莉花まりかの様子を思い出し、対外的な面で、というよりは、内面的な部分で、茉莉花まりかのことを心配していた。
 だがそれは杞憂と言えた。今年の茉莉花まりかは、かつてないほどに、笑顔を見せている。すでに2年半以上、茉莉花まりかの近くにいる礼諒なりあきにとっては、茉莉花まりかの笑顔が作り笑顔なのか、本心からのものなのかは、すぐに見分けがつく。
 礼諒なりあきは安心したように、ほっと息を吐いた。
 やや遠くのほうで、家事長かじちょうの女性と、家事人かじにんの若い女性が、茉莉花まりかの様子を見ながら話していた。家事長は、千鳥格子のベストを着用し、白の平織ひらおり生地の長袖のシャツには赤のリボンタイをつけ、黒のスラックスをはいている。家事人の女性も、無地のベストを着用し、白の平織り生地の長袖シャツに青のリボンタイ、黒のスラックスと、ややかしこまった服装をしている。家事人の女性は、茉莉花まりかの15歳の誕生日会で、「誕生日会を開いてもらったことはあるか」と質問されていた者だった。
「家事長様、今年のお嬢様は、とてもにこやかで……。わたしがお屋敷に参ったときから、いえ、去年までのお誕生日会のご様子からは、とても考えられません。何かいいことでも、おありになったのでしょうか?」
 家事人の女性は、家事長に不思議そうに話しかける。
「そうねえ。お嬢様も18歳、もうほとんど一人前ですもの。ご立派になられたということよ。」
 家事長が感慨深げに言う。
「確かに、一宮いちのみや家の次代ご当主でいらっしゃいますものね。ですが、あのお変わりようは、それだけではない気がします。」
 家事人の女性が、茉莉花まりかについてあれこれ推測しようとすると、家事長は、
「お嬢様について、勝手な想像で、勘繰るものではないわよ。」
とたしなめた。

 いよいよ、街歩きに出かける日になった。
 朝、ふと目覚めた茉莉花まりかが、枕元の時計を見ると、ふだんの休日に起きる時間よりも、ずいぶんと早かった。
「楽しみで、眠れないのね……。」
 小さな声でつぶやくと、茉莉花まりかはゆっくりと起き上がり、布団から出た。そのまま窓際に行き、カーテンを静かに開けた。
 暁の空が、目に飛び込んでくる。夜明けへと向かう、薄明るい空。少しずつ変化していく様子に、思わず見とれていた。
 そのうち、黄金こがね色の光が、空を染め始めた。澄み切った空気に、きらびやかな光が広がっていく。
「夜明けの空って、こんなにも美しいのね……。」
 そう言って、茉莉花まりかは顔をゆるめた。
 しばらくしたのち、ふたたび布団に戻ると、そっと座り、目を閉じた。高くかわいらしい鳥のさえずりが、茉莉花まりかの耳と心を楽しませている。茉莉花まりかは鳥の鳴き声にはまるで詳しくないが、鳴き声によって、鳥の言っていることが違う、ということは知っていた。
「声だけではわからないけれど……もしかして、今は2羽がやりとりしているのかしら。どんな関係で、どんな内容……?」
 鳥の鳴き声の種類の詳細を知らないだけに、かえって想像はふくらむ。もしかして、好き合っている2羽だったり――? そんな思いが、ふと頭に浮かぶ。
「鳥はうらやましいわね。身分だとか、主従だとか、そういうものにわずらわされることなんて、ないもの……。」
 茉莉花まりかはふっとため息をついた。
 また布団から立つと、今度は本棚へと向かった。手に取ったのは、礼諒なりあきが以前貸してくれたものと同じ、創作童話の本だった。とても気に入って、自分でも買ったものだった。
 茉莉花まりかは机へ向かうと、いちばんお気に入りの話のページを開き、読み始めた。
 ほかにもいくつかの話を読み終わったとき、部屋のドアをたたく音がした。
「お嬢様、おはようございます。礼諒なりあきでございます。」
「どうぞ、入って。」
 部屋に入ってきた礼諒なりあきは、机に座っている茉莉花まりかを見て、一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐに笑顔になると、グラスと水の入ったポットを運んできたお盆を、茉莉花まりかの部屋にある、小さなテーブルの上に置いた。
 茉莉花まりかは机から立ち、テーブルへと来て座った。
「お嬢様、今日はお早いですね。」
「ええ、目が覚めたの。きっと、すごく楽しみだからだわ。」
 パジャマ姿のまま、茉莉花まりかは微笑みながら答える。
「お早くお目覚めになるほど、楽しみにいてくださっているなんて、街歩きを考えたわたしとしては、とても光栄です。」
 礼諒なりあきは少し恥ずかしそうに、無意識に顔に触れながら、そう返した。
「そうね。礼諒なりあきさんが考えてくださったんだものね。……礼諒なりあきさんと一緒に、好きなところに出かけられることになって、本当にうれしくてたまらないの。」
 茉莉花まりかははにかんで、少し下を向きながら、小さな声で言った。
「えっ……。あっお嬢様、お水をおぎします!」
 礼諒なりあきは慌てて、水の入ったポットを手に持ち、グラスにごうとする。だが手元が動いてしまい、水が少し、テーブルにこぼれてしまった。
「あっもっ申し訳ありません! すぐにお拭きいたします!」
 礼諒なりあきはふきんでこぼれた水をさっと拭くと、グラスをそっと、茉莉花まりかへと差し出した。茉莉花まりかはその水を、すっと飲み干した。
「本当に申し訳ありません。せっかくのお出かけの日だというのに、朝からこんな失態をお見せしてしまうなんて……。」
 どこか青ざめたような礼諒なりあきに、茉莉花まりかは元気づけるように、優しく語りかける。
「いえ、きっと大丈夫よ。厄落としというものだわ。お出かけのときに楽しく過ごせるように、このお水が、いわば身代わりになってくれたのよ。」
「お嬢様……。」
「だって、こんなに晴れているんだもの。天気だって、応援してくれていると思えるわ。今なら、素直にね。」
 茉莉花まりかの言葉に、窓の外を見る礼諒なりあき。すっかり明け切った朝の空からは、日差しがまぶしく降り注ぎ、心を晴れさせてくれるかのようだった。
「ありがとうございます、お嬢様。今日は一日、お嬢様に心から楽しんでいただけますよう、誠心誠意、お尽くしいたします。」
 礼諒なりあきは晴れやかな顔に変わり、深々と頭を下げた。
「わたしのほうこそ、ありがとう。礼諒なりあきさん、今日は一日、よろしくお願いします。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきにつられるように、頭を下げた。
「ではお嬢様、そろそろ志歩しほさんがいらっしゃると思いますので、志歩しほさんに代わります。またのちほど。」
 そう言うと礼諒なりあきは、空になったポットとグラスをお盆に載せて、部屋を出た。