一生、お仕えします その12

第12話 意中の人

 屋敷に帰ると、茉莉花まりかは自分の部屋で、ワンピース姿のまま、布団の上に座りながら、一人、先ほどの見合いでの拓真たくまとのやりとりを、ぼんやりと思い出していた。
 親が決めた相手である、ということから、否定的な思いが先行し、まともに会話ができないものだと想像していた。だが、予想以上の、拓真たくまの物腰の柔らかさ、あたたかさに、一人の人間としては、受け入れられそうな気はしていた。
(でも、だからといって、結婚しろというのは……。)
 晴れそうで晴れない、不安定な曇り空のように、茉莉花まりかの心に、割り切れないもどかしさが広がっていく。どうにも逃れられない現実。茉莉花まりかはふと立ち上がり、本棚の前へと行くと、いちばんよく使う段を眺めた。礼諒なりあきから最初に借りた本と同じものを買い、その本はその段に置いている。茉莉花まりかは特に本を手には取らず、背表紙のタイトルだけを見つめていた。
 しばらくすると、部屋のドアを軽くたたく音が聞こえた。
「お嬢様、失礼いたします。志歩しほでございます。」
「あ、志歩しほさん。入ってください。」
 茉莉花まりかはドアを開け、志歩しほを部屋に入れた。
「お嬢様、お見合い、お疲れさまでした。お部屋着に着替えましょう。」
 志歩しほは少しだけ微笑むと、茉莉花まりかの着替えの手伝いを始めた。さっそく、見合いについての話題を出す。
「お嬢様、今日のお見合いはいかがでしたか? 上月こうづき拓真たくま様は、どんな方でいらっしゃいましたか?」
「そうですね……。上月こうづきさんは、とてもいい方でした。志歩しほさんが言っていたように、まさに紳士な好青年だと思いました。おかげさまで、思ったより、話ができたんです。」
「そうでいらっしゃるのですか。それはよかったですわ。」
 志歩しほは安心したように、笑顔を見せた。
 だが、茉莉花まりかは沈んだ顔になると、下を向き、口をぐっと結んだ。
「でも、そうだとしても……。」
 かすかに震える、茉莉花まりかの声。志歩しほは心配そうに、茉莉花まりかを見る。
「やっぱり、上月こうづきさんとは結婚したくないんです。上月こうづきさんではなくても、お父様やお母様が決めた相手との結婚は……。」
 気がつくと、一粒のしずくが、床へとこぼれていた。
「お嬢様……。」
「わがままを言ってはいけないことはわかっています。上月こうづきさんだって、客観的には、結婚するにはとてもいい人だというのも、わかるのです。でも……。」
 そこまで言うと茉莉花まりかは、言葉に詰まった。声にならない声を出そうとして、嗚咽が漏れる。
 志歩しほは、茉莉花まりかになんと言葉をかけるべきか、言葉以外の何かをするべきか、そもそも何もすべきではないか、答えを出せずにいた。目の前にいる一人の少女にとって、何がいちばん幸せなのか? 世話係として、茉莉花まりかの心強い味方でいる必要がある、いつもそのことを念頭において、仕事をしている。そのため、こんなことを言うのははばかられる。いや、だからこそ、言うべきなのか? でも……。
 ぐるぐるとした思考が頭を埋め尽くすが、やがて、勢いにまかせて、口を開いた。
「お嬢様、あの……。」
 勢いの中にも、おそるおそるといった、ためらいのような色が見え隠れする。だが、もう止められなかった。
「お嬢様が上月こうづき様とご結婚されたくないとお思いになるのは、ほかに好きな人がいらっしゃるからですよね?」
「えっ?」
 茉莉花まりかはにわかに上を向く。目には涙が光り、頬は、ほのかに赤みを帯びていた。
「それで、その、失礼を承知で申し上げるのですが……。お嬢様の好きな人って、礼諒なりあきさんでいらっしゃいますよね?」
「!?」
 茉莉花まりかの顔は、あっという間に真っ赤になった。体は時を止めたように、固まって動かない。
「な、なんで、わかるのですか!?」
 やっとの思いで、単純な疑問を口にする茉莉花まりか志歩しほは真面目な顔で、静かに答えた。
「わたしはお嬢様のおそばに仕えさせていただいているわけですし、お嬢様の礼諒なりあきさんへの態度を見ていれば、なんとなくわかりますわ。とはいっても、最初は、級友の方がお好きなのかな、とは思っていたのですけれど。高校時代の友人で、同じクラスに好きな人ができたという人がいたのですが、その友人と似たようなものを感じるのです。」
「そうなんですか……。まるわかりですか?」
 茉莉花まりかは困ったように、眉を下げて、志歩しほに尋ねる。
「誰がどう見ても、とまではわかりませんが、勘のいい人は気づくかもしれませんね。」
「え……。どうしましょう……?」
 茉莉花まりかはさらに困り果てた表情を見せると、うつむいた。
 二人はしばらくのあいだ、だまっていたが、やがて志歩しほが言葉を発した。
「お嬢様、礼諒なりあきさんとのことは、絶対に口外いたしませんわ。秘密はお守りいたします。」
 志歩しほは、右のてのひらを胸に当て、声に力強さを込めた。
志歩しほさん……。」
 茉莉花まりかが、志歩しほを見つめる。真剣さが伝わってくる。
「ありがとうございます、志歩しほさん。」
「いいえ、当然ですわ。それに、本当なら、礼諒なりあきさんとうまくいくように、ご協力差し上げたいところなのですが、立場上、そういうわけにもいかず、誠に申し訳ありません。」
「そんな、志歩しほさんが謝ることはないですよ。」
「お気遣いありがとうございます、お嬢様。わたしはせめて、お嬢様がずっと、礼諒なりあきさんと一緒にいられるように、全力をお尽くしいたしますね。」
 志歩しほは少し悲しそうに、そっと微笑んだ。茉莉花まりかもつられて、口角が少しだけ上がった。だがすぐにまた口角を下げると、申し訳なさそうに言った。
「でも、本来なら、志歩しほさんにそこまでの負担をかけさせるわけにはいかないですよね。そもそも、自分の執事のことなんて、好きになってはいけないということはわかっているのに、礼諒なりあきさんのことを好きになってしまったわたしが悪いのですから……。」
「お嬢様、そんなことをおっしゃってはいけませんわ。」
 志歩しほはすぐに、茉莉花まりかの言葉を否定した。
「確かに、一宮いちのみや家のしきたりだとか、好きになってはいけない相手だとか、そういうものはありますけれど……。以前も申し上げたことがありますように、人を好きになるお気持ちというものは、止められないものだと思います。ですから、礼諒なりあきさんのことをお好きになったお気持ちを、そしてそんなお気持ちを抱いた茉莉花まりかお嬢様ご自身のことを、どうか、責められたりだとか、悪いと思われたりだとか、そういうことはなさらないでくださいね。」
志歩しほさん……。」
 しばらくのあいだ、二人はだまったまま、見つめ合っていた。ふと、茉莉花まりかの目から、涙がいくつかこぼれた。志歩しほは、いつも持っている清潔なタオルを、茉莉花まりかに差し出した。
 やがて、茉莉花まりかが落ち着くと、志歩しほは、着替えをきちんと終わらせた。茉莉花まりかは、礼諒なりあきたちとの街歩きで買った布で仕立てたブラウスを着ていた。
 茉莉花まりか志歩しほに付き添われて洗面所に行き、化粧を落とすと、また部屋へと戻った。その後、夕食までは一人で受験勉強をしたり、少し休んだりすることにした。志歩しほは、
「ではお嬢様、夕食の支度ができましたらお呼びしますね。もしくは、何かご用事がおありでしたら、いつでもお呼びください。」
と言うと、静かに部屋を出た。

 夕食の時間になり、茉莉花まりかはダイニングへ行った。すでに重元しげもと桜子さくらこが、食卓の席についていた。茉莉花まりかも、給仕のために待機している礼諒なりあきにいすを引かれ、静かに座った。
 やがて、吉川よしかわ礼諒なりあきの給仕で料理が運ばれ、3人は食事を始めた。
 食事中の話題の中心は、今日の見合いについてのことだった。重元しげもとが穏やかな声で、茉莉花まりかに尋ねる。
茉莉花まりか、お見合い、お疲れであったな。拓真たくまくんはどうだったか?」
 桜子さくらこも、にこやかに茉莉花まりかに話しかける。
「けっこう、お話も盛り上がっていたじゃない。これから、うまくやっていけそう?」
 茉莉花まりかは少しのあいだ、二人の問いかけには答えずに、考えながら食べていたが、やがてひと息つくと、言葉を発した。
「ええ、そうね。上月こうづきさんは、とてもいい人だと思ったわ。」
 茉莉花まりかの感想に、重元しげもとはほっと胸をなでおろした。
「そうか、それはよかった。茉莉花まりか拓真たくまくんと結婚して、上月こうづき家と親戚になれば、お互い協力しながら家業をおこなえるし、いい影響を与え合えるだろう。そうすれば、この地域に暮らす方たちの生活も、より良くなるだろう。頼んだぞ、茉莉花まりか。」
 にこやかに話す重元しげもととは反対に、顔をしかめ、ゆっくりと食べる茉莉花まりか桜子さくらこが様子に気づき、心配そうに声をかける。
茉莉花まりか、気分が悪いの? なんだか顔色が悪い気がするわ。」
「いえ、大丈夫よ、お母様。心配してくれてありがとう。」
 茉莉花まりかはそう言って、二口ふたくちほどを口にした後、箸を止め、重元しげもとの目を見て、やや低めの声で言った。
「ねえ、お父様、必ず上月こうづきさんと結婚しなければいけないの?」
「ま、茉莉花まりか、何を言うの……。」
 桜子さくらこが、目を見開いて、茉莉花まりかのほうを見た。重元しげもとは冷静さをくずさずに、優しい声で言った。
「まあ、できれば、わたしや母様としては、拓真たくまくんと結婚してほしいと思っているな。上月こうづき家とのこともあるが、拓真たくまくんなら、茉莉花まりかのいい夫になると思っているのだ。」
「そう……。」
拓真たくまくんでは、不満か?」
 茉莉花まりかは、重元しげもとの質問には答えずに、下を向き、だまって食事を再開した。やや沈んだ空気が場を覆う。茉莉花まりかの後ろのほうで待機している礼諒なりあきは、背中にひとすじの汗が流れたのを感じていた。
「ま、まあ、今日初めて会ったわけだから、拓真たくまくんのことがよくわからないのは、当然よね。」
 桜子さくらこが慌てて、空気を塗り替えようと、笑顔を作って、声に朗らかさを乗せる。
「別に、今すぐ結婚というわけではないのだし……。大学生になったら、おうちに招き合ってお話ししたり、一緒にお出かけしたりして、拓真たくまくんのことを知る機会を作るわけだし、きっとその中で、少しずつ拓真たくまくんの良さも、わかってくるはずだし、信頼関係だって築けると思うわ。だから、安心しなさいね。」
 茉莉花まりかは姿勢を変えないまま、静かに食事を続ける。先ほどからゆっくりと食べていたが、さらに遅くなり、やがて、ふたたび箸を置いた。しばらくじっとしていたが、あるときふと上を向くと、重元しげもとの目を見た。
「ねえ、お父様とお母様も、親が決めた結婚なのよね? 親が決めた相手って、いやではなかったの?」
 茉莉花まりかの、真剣さと不安、拒絶を思わせるこわばりが混ざったような、なんとも言えない表情に、また場が静まり返った。居心地の悪い、重苦しい空気感。茉莉花まりかの後ろのほうで控えている礼諒なりあきは、雰囲気を敏感に感じ取り、スラックスの布地をつかんだ手と、背中には、汗が流れ出した。
 長いような、結果的には短かったような、沈黙の後、重元しげもとも箸を置くと、ゆっくりと口を開いた。
「それは、当然出る疑問と言えるな。」
 重元しげもとは一呼吸置くと、言葉を続けた。その場の者たちは、みな重元しげもとに注目する。
「子どもの頃からずっと、わたしも母上や父上、つまり茉莉花まりか祖母様ばあさま祖父様じいさまから、将来は親が決めた相手と結婚すると聞かされていたので、そういうものだと思っていたし、わたしの場合はまわりに、時代的にもまだ、そういう人がそれなりにいたからな。」
「そうなのね……。」
「それに、実際、お見合いをしてみれば、桜子さくらこさん、つまり母様はいい人だったので、すぐに打ち解けられて、この人となら、うまくやっていけそうだと思ったのだ。」
 茉莉花まりかは相槌も打たずに、不動で話を聞いている。
「実際結婚して、うまくやっていけていると、わたしは思っている。また、母様の実家である、青垣あおがき家とつながりが持てたことによって、やはりお互いの家業が円滑におこなえているし、この地域の方の生活にも向上していると、自負しているのだよ。母様とは、いいご縁に恵まれたな。」
「……わかったわ。」
 茉莉花まりかは小さな声で、ひとことだけ言うと、まただまって食べ始めた。重元しげもとは、茉莉花まりかの気持ちをほぐすように、穏やかな顔を見せた。
茉莉花まりか、今の時代に、親が決めた相手と結婚するというのがそぐわないというのは、父様たちもわかっている。だからこそ、茉莉花まりかの夫候補には、ふさわしい相手を選んだつもりだ。上月こうづき家は良家であるし、拓真たくまくんは人柄もよく、茉莉花まりかと年も近い。結婚すれば、二人で協力して、未来の一宮いちのみや家を作っていけるだろう、と考えているのだよ。」
 桜子さくらこも、茉莉花まりかを励ますように、優しい声で言う。
「親が決めた、ということが気に入らないのはわかるけれど、ひとまずそのことは考えないで、ご縁のある相手だということで、拓真たくまくん自身を見なさい。きっと、少しずつ好感を抱くようになると思うわ。」
 茉莉花まりかは、重元しげもと桜子さくらこの言葉には何も答えず、ひたすら、ゆっくりと食事を続けた。夕食を済ませるのに、いつもより40分以上も長くかかっていた。

 夜のお茶の時間になり、いつも通り、礼諒なりあきがお茶を持って、茉莉花まりかの部屋に来た。茉莉花まりかは小さなテーブルで、礼諒なりあきの淹れたお茶を、ゆっくりと飲み干した。
 礼諒なりあきは、お茶を飲む茉莉花まりかを静かに見守っていたが、茉莉花まりかが湯飲みをテーブルに置いたのを確認すると、大きく息を吸ってから、そっと声を出した。
「あ、あの、お嬢様、本日はお見合い、お疲れさまでした。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきのほうを向くと、会話に応えた。
「ありがとう、礼諒なりあきさん。」
「あの、お嬢様、今日は結局あまりお役に立てず、申し訳ありませんでした。それどころか、出しゃばってしまって……。」
 礼諒なりあきが、申し訳なさそうに、深々と頭を下げる。そのまま、下を向いていた。茉莉花まりか口許くちもとをゆるめ、声に明るさを持たせて言った。
「そんなことないわ。上月こうづきさんとうまく話せたのは、礼諒なりあきさんがいてくれたおかげよ。」
 礼諒なりあきは顔を上げると、茉莉花まりかの口のあたりを見た。茉莉花まりかは同じ顔のまま、話を続ける。
「実はね、今日化粧をするとき、礼諒なりあきさんがお誕生日に下さった化粧品を、ほんの少しだけつけたのよ。だから、きっと2倍、礼諒なりあきさんに力をもらったの。」
「お嬢様……。」
 礼諒なりあきは、なんと答えていいかわからずに、だまって手をぐっと握りしめた。ふだんより、胸が高鳴り、顔が少し熱くなってきたことを感じていた。
 礼諒なりあきは、自分の状態を悟られまいと、話題を変えることを試みた。だが、何から言おうか、頭の中がうまく整理できず、話題同士が乱し合っていた。ふと、夕食時の茉莉花まりかの様子を思い出したと思うと、いつの間にか、口から言葉が出ていた。
「お嬢様、先ほどのご夕食のとき、あのようなことを、旦那様や奥様におっしゃって、よろしかったのですか?」
 急に、茉莉花まりかは口角を下げ、不満そうな顔になる。
「あんなこと、って?」
 茉莉花まりかの声から明るさが消えたことを感じ取り、礼諒なりあきはこわごわと答えた。
「ですからその……。必ず、上月こうづき様と結婚しないといけないのか、という……。」
 茉莉花まりかは下を向き、ふっとため息をつくと、礼諒なりあきからは視線を外して言った。
「だって、この人と結婚しなさい、だなんて、そうなることは昔からわかっていても、いざとなると、すぐには受け入れられないわ。」
 茉莉花まりかは抑え気味の声で、はっきりと言葉を空気中に逃した。礼諒なりあきは、自分の行為を反省しつつ、なるべく感情は込めず、見たままの感想を口にした。
「ですがお嬢様、上月こうづき様は、とてもいい方だと思いましたし、お嬢様のご結婚相手としても、申し分ないと思ったのですが……。」
「確かに、上月こうづきさんがとてもいい人だということは、痛いくらい伝わってきたわ。お父様やお母様が、わたしの結婚相手として考えるのも、納得がいくわ。だからといって、どうしても結婚しろ、だなんて……。」
 茉莉花まりかは深くため息をつくと、礼諒なりあきの顔を見た。そしてすぐにうつむき、やや小さな声で言った。
「あんなにいい人では、断れないわよね。断ったところで、結局親が決めた相手との結婚だろうし、好きな相手との結婚なんて、できないわね。」
「お嬢様……。」
 茉莉花まりかは顔を上げると、寂しげに微笑む。そのまま二人はだまってしまい、まわりには、冷たい空気が漂っていた。
「あの、お嬢様……。」
 礼諒なりあきが沈黙を破る。何か言いたげな雰囲気を察し、茉莉花まりか礼諒なりあきの口許に注目した。少しの戸惑いの動きの後、礼諒なりあきはかすかに震える声で、茉莉花まりかに疑問を投げかけた。
「もしかして、意中の方がいらっしゃるのですか?」
「えっ……?」
 茉莉花まりかはにわかに顔を赤らめ、目を見開き、口をぱくぱくとさせている。礼諒なりあき茉莉花まりかの態度に、真剣な顔になって、自分の思いを口にした。
「お嬢様、よろしければ、お嬢様の思いを叶えられますよう、わたしがご協力申し上げます。意中の方にお願いして、結婚するまでのあいだだけでも交際したり、せめて、一度だけでもデートをなさったり……。」
「その必要はないわ。」
 茉莉花まりかはにわかに冷静な態度になり、礼諒なりあきの言葉をさえぎった。
「ですが、少しでも、もやもやとしたお気持ちは、解消されたほうがいいのではありませんか? わたしはお嬢様をお支えしますとお約束申し上げましたが、こればかりは、お相手のお力が必要だと存じるのですが……。」
「いえ、いいのよ。お心遣いありがとう。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきから視線を外すと、カーテンの閉まっている窓を見た。そして軽くため息をつくと、沈んだ声で言った。
「わたし、わがままよね。親が決めた相手と結婚することは、昔からわかっていたのに……。第一、片思いで終わる恋だってあるんだもの。そう考えれば、叶わなかった恋の後に新しい相手と出会った、それと同じことよね。」
「お嬢様、そんな……。」
 茉莉花まりかはまた、礼諒なりあきのほうを向くと、穏やかな微笑みを作ってみせた。
「さあ、今は受験のことに集中しましょう。来月には期末試験だってあるし、まずは勉強ね。上月こうづきさんとの結婚については、受験が一段落してからまた、考えればいいわ。」
「わ、わかりました、お嬢様。」
 礼諒なりあきは、たたみかけるような茉莉花まりかの口調に、もはや何も言えなくなっていた。そろそろお茶を片付けようと、からになった湯飲みに目をやった。お盆に湯飲みを載せながら、受験のことや、今後のことについて考えている。あるとき、はたと作業を止めて、手を体の前で組み、茉莉花まりかに言った。
「そういえばお嬢様、また旦那様か、吉川よしかわ様からお話があるかもしれませんが……。」
「何かしら?」
「期末試験が終わったあたりから、わたしが今の時間にお茶をお持ちするのは、週に1回か2回になります。受験が終わるまでは、受験を優先させていただくことになりました。ほかの日は、志歩しほさんや吉川よしかわ様、家事人かじにんの方などがお持ちする予定です。」
 礼諒なりあきは用件を言い終わると、軽く頭を下げた。茉莉花まりかは少し目を細め、少しだけ下を向いてから、また顔を上げて、礼諒なりあきを見た。
「わかったわ。礼諒なりあきさんに会う時間が少なくなって、寂しくなるわね。」
「申し訳ありません……。」
「いえ、むしろわたしのほうが、申し訳ないわ。勉強だけをしていたいでしょうに、お仕事があるなんて……。」
「そんなことはありません。お茶をお持ちするのは、そんなに時間がかかるわけではありませんし、わたしにとっても、いい息抜きになっています。」
「本当に、礼諒なりあきさんのお心遣いは、とてもうれしいわね。」
 茉莉花まりかが花のようにほころんだ。礼諒なりあきの頬が、気づかないくらいにうっすらと、赤く染まる。
「あ、あの、お嬢様、お茶をお持ちする回数は少なくなっても、たまに一緒に勉強することもできますし、なんならいつでもお屋敷の中におりますので、ご用事があれば、いつでもお申し付けください。」
 礼諒なりあきは、今の自分の状態を悟られまいと、執事見習いとしての言葉を述べた。
「ええ、ありがとう。そうすれば、少しでも多く、礼諒なりあきさんと一緒にいられるわね……。」
 茉莉花まりかがそう言ったと思うと、やや目を伏せて、軽く握った手を口許に持っていき、そのまま静かになった。礼諒なりあきは思わず、茉莉花まりかの言葉に反応していた。
「あの、お嬢様、わたしも、少しでも長く、お嬢様とご一緒に、お過ごししたいです……。」
「えっ……?」
 茉莉花まりかは思わず礼諒なりあきの顔を見た。礼諒なりあきの頬が、赤く染まっているのに気づいた。自分の頬も、熱くなっていっているのを感じている。礼諒なりあきからも、頬の赤さを見られているかもしれない、という考えがよぎったかよぎっていないかの一瞬に、反射的に手で頬をおおっていた。
「あ、あの、とにかく、お互い、受験がうまくいくといいわね!」
「そ、そうですね! お嬢様なら、必ずや、第一志望の大学に、合格なさいますよ!」
 二人は互いに、それぞれの態度をごまかすように、不自然な大きさの声と話し方で言葉を交わした。そうしながら、礼諒なりあきは慌てて、お盆に湯飲みと急須、お湯を入れるポットを載せ、お盆を運ぶ体勢に持っていった。
「それではお嬢様、失礼いたします。勉強も大切ですが、くれぐれも、お休みも大切になさってくださいね。」
 礼諒なりあきは軽く礼をしたのち、足早に、茉莉花まりかの部屋を出た。
 礼諒なりあきがいなくなった部屋で、茉莉花まりかは机に座って一人、先ほどのやり取りを思い出していた。頬はまだ冷めない。それどころか、ますます熱くなっているようにも思われ、鼓動も速くなってきている。
(べ、別に、わたしと一緒に過ごしたい、って、特別な意味ではない、わよね……?)
 茉莉花まりかは胸に手を当て、胸の高鳴りをしずめようとしていた。――必死に、礼諒なりあきへの気持ちと、期待する心を、抑えようとしていた。
「そうよ、礼諒なりあきさんは、わたしの執事だもの……。交際なんて、できるわけないわ。礼諒なりあきさんだって、わたしのこと、そういう対象として見ない、はずよね……。」
 茉莉花まりかは小さな声でつぶやくと、机から立ち上がり、窓のほうへと行った。カーテンをよけて、しばらく外を眺めていたが、また机に戻ると、勉強を始めた。