一生、お仕えします その13

第13話 冬から春へ

 期末試験も終わり、冬休みが近づくと、冬もどんどんと深まりを見せ、寒さが肌にしみるようになってきた。道端では、枯れた草が地面にへばりつくように、冬に耐え始めていた。
 礼諒なりあきは予告通り、茉莉花まりかに夜のお茶を持ってくるのは週一度、たいていは決まった曜日になった。それ以外の日は、日によって、志歩しほ吉川よしかわ家事人かじにんのだれかがお茶を持ってきている。礼諒なりあきの担当の曜日のお茶の時間になると、茉莉花まりかはほかの日よりも、心が躍るような気がしていた。
 年末も近づいてきており、受験生である茉莉花まりか礼諒なりあき以外の、一宮いちのみや家の中では、年末の片づけと、新しい年を迎えるための準備が、慌ただしくおこなわれている。ふだんとは違うざわついた感じを体で感じつつも、受験勉強のために、そこからは隔ててもらっているという、安心感と特別感。それが自分だけではなく、礼諒なりあきもそうであるということに、茉莉花まりかはほのかな高揚感を覚えていた。
 今日は、礼諒なりあきがお茶を持ってくる日だった。いつものように部屋に来ると、茉莉花まりかの座っている小さなテーブルの上にお盆を置き、急須に茶葉を入れ、お湯を注ぐ。少し経ってから、お茶を湯飲みにぐ。お茶の香りがふわりと広がり、湯飲みには、透明感のある美しい緑色が、品よくたたずんでいる。ずっと眺めていたくなる、心を落ち着かせてくれるような景色。引き込まれてしまいそうだった。
 茉莉花まりかはお茶をゆっくりと飲みながら、礼諒なりあきに微笑みかけた。
「お茶、おいしいわ。最高ね。礼諒なりあきさんも受験勉強で忙しいというのに、週に一度は礼諒なりあきさんの淹れたお茶を飲めるなんて、こんなに幸せなことはないわ。」
「あ、ありがとうございます、お嬢様……。」
 礼諒なりあきは、少し恥ずかしそうに、うつむいた。
 二人の話は、受験や大学の話題へと移っていった。それぞれに、勉強や新生活への不安や、高校生活がほとんど終わってしまった寂しさを心の隅に抱えながらも、表面的にはふだんと変わらずの生活を送っている。お茶の時間の会話は、今の二人にとって、大きな心の支えになっていた。
「前からわかっていたけれど、高校を卒業したら、もう礼諒なりあきさんとは違う学校に行くことになるのね。寂しいわね……。」
「お嬢様……。」
 茉莉花まりかは瞳に憂いを浮かべながら、話を続ける。
礼諒なりあきさん、三年間ありがとう。礼諒なりあきさんと同じ時期に、同じ学校に通えたことで、どんなに心強かったことか……。本当に、感謝してもしきれないわ。」
 茉莉花まりかは座ったまま、礼諒なりあきを見つめた。礼諒なりあきの穏やかな顔つきと、いつも真面目に、ひたむきに仕事をこなしている姿勢が、目に映る。
 礼諒なりあき茉莉花まりかの視線に、緊張を隠しきれずにいたが、瞳の奥と、声から感じ取れる物悲しさに、ふと思いついたことを、口にしてみた。
「あの、お嬢様、よろしければ、今からでもわたしが志望大学を変えて、お嬢様と同じ大学を目指しましょうか?」
「えっ?」
 唐突な礼諒なりあきの言葉に、茉莉花まりかは思わず目を丸くする。それは、礼諒なりあきの、「茉莉花まりかに仕える執事見習い」としての考えであることは、すぐにわかった。だからこそ、茉莉花まりかはすぐに否定の態度を示した。
「いえ、そんなことはしなくていいわ。自分の行きたい大学に行くのが一番よ。」
「ですが、わたしが大学もお嬢様と同じところに行ければ、お嬢様が少しでも、寂しい思いをなさらなくてすむでしょうし、執事見習いとして、よりお嬢様の助けになれると思うのですが……。」
 茉莉花まりかは大きく息を吸い込むと、軽く息を吐き、にこやかに礼諒なりあきに言った。
礼諒なりあきさん、わたし、以前お父様に聞いたのだけれど、礼諒なりあきさんがうちにくることになったきっかけの一つが、大学に行きたいから、ということだったのよね?」
「えっと、はい、そうです。」
 茉莉花まりかの質問を鋭く感じて、礼諒なりあきはやや身構えつつ、答えを続ける。
「わたしの両親は、大学時代の同級生だったそうです。両親がよく、大学時代の話をしているのを、子どもの頃に聞いていました。それがとても楽しそうで、僕も将来は大学に行きたいなあ、と憧れていたのです。」
「そうなの。とても素敵ね。」
「ありがとうございます。そして、執事見習いのお話をいただいたとき、旦那様が、大学まで行かせてくださるとおっしゃいました。施設にいても、大学に行くことはできるとのことだったのですが、やはりどうしても、不安だったり、本当にいいのかな、という思いもあったりしまして……。」
「よくわかったわ。」
 茉莉花まりかは穏やかな微笑みをくずさないまま、礼諒なりあきを見つめる。
「ねえ、礼諒なりあきさん、今のお話を聞いて、なおさら、礼諒なりあきさんが行きたい大学に行くのがいい、と思ったわ。」
「え? なぜですか? なんだか、わたし自身の身勝手である気がしたのですが……。」
 礼諒なりあきは申し訳なさそうに、肩をすくめている。
「そんなことはないわ。そもそも、お父様には、執事見習いの勉強や仕事のために、大学へ行くことや、この中から志望大学を選びなさい、ということは、言われていないでしょう? つまり、どこでも好きなところに行っていいのよ。」
「確かにそうですが……。そういうものなのですか?」
「ええ。執事見習いの仕事と、大学へ行くことは、まったく別の話よ。せっかく、行きたい大学に行ける機会なのだから、最大限に活用するのがいいと思うわ。お父様が、礼諒なりあきさんに与えてくれた、好機なのよ。一宮いちのみや家だとか、執事の仕事だとか、そういうことはいっさい考えないで、純粋に、好きなことを学ぶの。わたしではなく、自分のために、ね。」
 言い終わると、茉莉花まりかはふっとため息をつき、瞳に悲しそうな色を含ませて、下を向いた。
「お嬢様……。」
「わたしは、志望大学は、この中から選びなさい、ってある程度決められているけれど……。でも、好きな学部を選ぶことはできるから、それはよかったわ。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきからは視線を外し、独り言のようにつぶやく。そばで見守る礼諒なりあきは、胸の中をちくりと、鋭い針で刺されたような感覚を覚えた。
「だからね、礼諒なりあきさん。」
 ふたたび茉莉花まりか礼諒なりあきのほうを向くと、わずかに声を震わせた。
礼諒なりあきさんには、わたしのことなんか気にしないで、行きたい大学に行ってほしいの。主人として、礼諒なりあきさんには、もちろんほかの人にも、自由を与えたいと、いつも思っているわ。」
「お嬢様……。」
 茉莉花まりかの、茉莉花まりからしく、思いやりに満ちた思い。礼諒なりあきは、受け取ることに不安を覚えた。執事見習いとして働いているとはいえ、一宮いちのみや家に学費を全額出してもらって、自分の好きな大学に行くという自由を許してもらってもいいのだろうか――。しかし、茉莉花まりかの気持ちを考えればこそ、そうするのがいいのではないか。礼諒なりあきは心を決めた。
「ではお嬢様、お言葉に甘えさせていただきます。」
 礼諒なりあきは静かに答えると、深々と頭を下げた。茉莉花まりかは満足そうな、それでいて寂しそうな、二面性の感じられる笑みを見せている。
 ふと、茉莉花まりかのお茶のあたりに目をやると、湯飲みはいつしか空になっており、美しい緑色は、茉莉花まりかの体の中へとしみ渡っていったことがうかがわれた。
「お嬢様、お茶のおかわりは、いかがいたしますか?」
 礼諒なりあきがそっと、茉莉花まりかに尋ねる。
「今はもういいわ。ありがとう。おいしかったわ。」
 礼諒なりあきは静かに素早く、お茶の道具を片づけると、
「ではお嬢様、勉強とお休みのめりはりをおつけになって、受験までの日を乗り切りましょう。それでは失礼いたします。」
と言って、茉莉花まりかの部屋を出た。

 年が明けた。新しい年のお祝いのため、一宮いちのみや家の屋敷に親戚が集まるのが、毎年恒例の行事となっている。また、桜子さくらこの兄、つまり茉莉花まりかの母方の伯父は、良家「青垣あおがき家」の当主であるため、伯父の家族には、茉莉花まりかたち家族が、青垣あおがき家にあいさつに出向くことになっていた。
 正月、一宮いちのみや家の屋敷には、茉莉花まりかの父方の祖父母はもちろんのこと、重元しげもとの弟や妹、つまり茉莉花まりかの父方の叔父や叔母の家族が集まる。叔父も叔母もそれぞれ複数の子どもがいるため、茉莉花まりかにはいとこが何人かいる。ふだんはあまり会うことはなく、正月くらいにしか話す機会もないのだが、茉莉花まりかはいとことは話が合いづらいのか、集まりの場にいても、口数は少なく、話の輪に入っていくような感じでもない。年もそれなりに違えば、叔父も叔母も結婚により改姓したため、いとことは名字も違う。たいていの場合は、いとこと名字が違っても、それだけで、疎外感のようなものを感じることはないかもしれない。だが茉莉花まりかにとっては、「同じ名字のいとこがいない」という事実は、自分が背負わなければいけないものの大きさを、より増幅させるように感じられるものだった。
 新年のあいさつを済ませると、食事会が、一宮いちのみや家の、来客用のダイニングでおこなわれる。親族だけで10人以上おり、それぞれが新年ならではの会話に花を咲かせ、にぎやかな空気を作り出している。部屋全体は正月の祝いの飾りつけがなされ、テーブルも、華やかできらびやかな、金色や赤系を中心とした、テーブルクロスや花で装飾されている。美しい絵の描かれた器や、一見、簡素だが上質な器など、正月にふさわしい器には、これまた正月にふさわしい、手の込んだ祝いの料理が盛りつけられている。めいめいが、料理の味を楽しみながら、和やかに、会話も楽しんでいるようだった。ときどき、吉川よしかわ礼諒なりあき、給仕担当になった家事人かじにんたちが、飲み物をいだり、不要そうな皿を下げたりなど、正月の祝いのひとときを快適に過ごせるよう、目立たぬように働いていた。
 そんな中、茉莉花まりかは静かにゆっくりと、まわりとはほとんど話さずに、食べ物を箸で運んでいた。昨年、おととしともに、給仕をしていた礼諒なりあきは、今年も同じようにぽつんとしている茉莉花まりかを、心配そうに見ている。ときどき、ほかの者には聞こえないよう、茉莉花まりかにそっと声をかける。
「お嬢様、いとこの方たちとは、お話しされなくていいのですか?」
「ええ。あまり話題もないし……。わたしはだまっているしかないわ。たまに話しかけられたら、答えるくらいね。」
 茉莉花まりかは沈んだ声で答えた。正月の集まりの場では、自分が茉莉花まりかと雑談するわけにもいかず、助け舟を出すにも出せず、礼諒なりあきは、もどかしさを抑えられずにいた。正月の、めでたく明るい空間が、そこだけ闇に支配されているように見えた。
 いっそのこと、この場から茉莉花まりかお嬢様をのがしたい。そして、二人だけでささやかに、新年のお祝いができればいいのに――。決してかなうことのない情景を、礼諒なりあきは、頭の中に何度も何度もえがき続け、自分の無力さに、手をかたく握りしめることしかできなかった。
 翌日、茉莉花まりかたち家族と、吉川よしかわ礼諒なりあきは、桜子さくらこの実家である青垣あおがき家に、新年のあいさつへと訪れた。いつもの年は、青垣あおがき家でも、新年の食事会をするのだが、今年は茉莉花まりかの受験に配慮し、簡単なあいさつと、手みやげを渡す程度にとどめることになっていた。茉莉花まりかは伯父と伯母、そしていとこ二人に軽くあいさつをする。いとこは姉妹で、茉莉花まりかから見ると、いつも仲が良さそうに見える。桜子さくらこは、兄とのひとときを楽しんでいるようだった。本人にそのつもりはないことは充分わかっていても、どこか「見せつけられている」ような気持ちになってしまい、茉莉花まりかは今年も、罪悪感に襲われるのだった。言葉にはしないが、人には言えないような感情を抱いてしまっていると、茉莉花まりかの態度から察した礼諒なりあきは、屋敷に帰った後に茉莉花まりかを励ますための言葉を考えていた。
 あっという間に正月は終わり、また受験勉強が中心の日がやってくる。茉莉花まりか礼諒なりあきも、互いの志望校合格のため、ひたすら努力を重ねていた。
 冬休みが明けると、すぐに卒業試験や、大学受験のための試験があり、終わると卒業式のころまで自由登校になる。二人とも、基本的には学校に行かずに、自分の部屋や、屋敷内の学習室で勉強し、たまに学校の先生に用事があるときだけ、吉川よしかわに頼んで学校まで車で行ってもらっていた。
 週に一度、礼諒なりあき茉莉花まりかの部屋にお茶を持ってくることは継続されており、茉莉花まりかはそれを一つの励みにして、受験勉強を乗り切っていた。

 冬の寒さも一段と厳しくなり、そろそろ、各大学の試験が始まろうかというころ、茉莉花まりかが部屋で勉強していると、志歩しほ茉莉花まりかを呼びにきた。
「お嬢様、受験勉強お疲れ様です。吉川よしかわ様から、お嬢様をお呼びするように、と言われたのですが、今、少しお時間よろしいですか? お客様がいらしたようなのですが……。」
「お客様、ですか? どなたかしら?」
 茉莉花まりかは不思議そうに、顔をしかめたが、気分転換のために、少しの時間、来客に応じることにした。
 応接間に行くと、礼諒なりあきも呼ばれたようで、姿があった。そして、客が座るためのソファに目をやると――拓真たくまがいた。見合いのときのようなスーツではなく、ややカジュアルでありながらも、品の良さを感じさせる私服を着ていた。寒い今の時季に合わせて、セーターや、冬向きの生地が使われているパンツを身につけている。
「お久しぶりです、茉莉花まりかさん、笹原ささはらくん。」
 拓真たくまは立ち上がり、深々と頭を下げた。
上月こうづきさん……! どうなさったのですか?」
 茉莉花まりかは驚いて、思わず声を上げた。
「受験で忙しいときに、ごめんなさい。でも、どうしてもお渡ししたいものがあって……。簡潔に済ませますね。まずは座りましょう。」
 拓真たくまはにこやかに笑った。
 応接用のテーブルをはさんで、茉莉花まりか礼諒なりあきと、拓真たくまが向かい合って座る。吉川よしかわが、三人分のお茶を持ってきて、テーブルにそれぞれ置いた。その後、吉川よしかわと、拓真たくまと一緒に来た上月こうづき家の執事は、後ろで控えて、三人を見守っていた。
 拓真たくまはかばんから、小さな包みを取り出した。淡く明るい色の、上品な模様のある紙で包まれていて、薄べったいものだった。
「よかったら、開けてみてください。」
 拓真たくまの言葉で、茉莉花まりか礼諒なりあきはそれぞれ、包みをほどいた。中から出てきたのは、てのひらにちょこんと乗る、小さな美しい布に、細やかな刺しゅうがほどこされている――お守りだった。
「あの、上月こうづきさん、これは……。」
 茉莉花まりかがおそるおそる、拓真たくまに尋ねる。
「僕が大学受験のときに、お世話になったお守りです。」
 拓真たくまは、自身の顔つきにふさわしい、穏やかな表情で、説明を続ける。
茉莉花まりかさんも笹原ささはらくんも、とても勉強をがんばっていらっしゃるとお聞きして、僕が何かお力になれることはないかと考えたんです。お守りは、もちろん信じる、信じないは自由なので、このお守りを持って試験にのぞんでくださってもいいし、特にそうなさらなくてもいいですし。ただ、僕も、茉莉花まりかさんとのご縁をいただいた者の一人として、受験を応援しているという気持ちを、伝えたかったんです。」
「ありがとうございます、上月こうづきさん。こんな寒い時季に、わざわざおいでくださって……。」
 茉莉花まりかは戸惑いを少し見せつつも、深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、どういたしまして。茉莉花まりかさんも、笹原ささはらくんも、必ず第一志望の大学に受かると、僕は思っていますよ。」
 拓真たくまは優しく微笑んだ。
 その後すぐに、拓真たくまは執事とともに帰っていった。茉莉花まりか礼諒なりあき拓真たくまを見送ると、ふたたび部屋へと戻っていく。
 礼諒なりあきは、茉莉花まりかを部屋へと送りながら、恐る恐るといった感じで、お守りの件についての話題を出した。
「お嬢様、上月こうづき様がくださったお守りは、受験のときに身につけられますか?」
「そうね……。わたしは、お守りは基本的に信じているし、せっかくのご厚意だもの、身につけるかもしれないわ。礼諒なりあきさんはどうするの?」
 自分のことを聞かれるとは思わず、礼諒なりあきはいきなりの茉莉花まりかの質問に、内心慌てた。だが、おもてに出すのは抑えた。悟られたくない気持ちがあったのだ――。
「そうですね……。今すぐにどうするかとは決められませんが、少なくとも、上月こうづき様のお気持ちはいただきました。身につけるかどうかは、当日の気分次第になるかと思います。」
「そう。それがいいと思うわ。」
 そこまで話すと、二人は茉莉花まりかの部屋の前に着いた。礼諒なりあきは部屋のドアを開け、茉莉花まりかを部屋に入れると、
「ではお嬢様、最後まで、受験勉強に全力を尽くしましょう。」
と言って、ふたたびドアを閉め、自分の部屋へと戻った。
 自分の部屋で、礼諒なりあき拓真たくまから贈られたお守りを見つめていた。拓真たくまが、悪気がなく贈ってくれたことは、充分にわかりきっていた。本来、使用人である自分がもらえるはずはないであろうに、きちんと二人分用意してくれた拓真たくまの人柄の良さは、どこまでも伝わってくる。
 だからこそ、湧き上がってくる感情がある。立場の違いを比べても仕方のないことは、この3年で、頭にも体にも、心にも刻みつけたつもりだった。自分は執事としてはふさわしくない、自責の念にかられてしまう。でも――。
 片や茉莉花まりかの未来の夫で、堂々と「個人的な贈り物」ができる立場。片や茉莉花まりかに個人的な好意を抱いてはいけない使用人で、「個人的な贈り物」も当然してはいけない立場。拓真たくまの穏やかな顔つきが、よりいっそう、立場の違いを、人柄や品の違いを、浮き彫りにする。
 礼諒なりあきはお守りを、片手で強く握りしめた。その後、机の見やすい位置へと飾った。
 いっぽう、茉莉花まりかも自分の部屋の机の前で、拓真たくまからのお守りを見て、考え事をしていた。拓真たくま茉莉花まりかの好みをきちんと把握しているらしく、お守りの色合いと刺しゅうの細やかさには、単純に心を惹かれる。
「これが、礼諒なりあきさんがくれたものならよかったのに……。」
 茉莉花まりかはため息をつくと、小さな声でつぶやいた。瞳が少しうるんでいるのが感じられた。
「って、そんなことを言ったら失礼よね。せっかくくださったのに……。上月こうづきさんは上月こうづきさんとして、このお守りは、試験を受けるときに身につけましょう。」
 茉莉花まりかはいすから立ちあがると、ドレッサーの前へ行き、引き出しを開けた。誕生日に、礼諒なりあきからひそかに贈られた、小さな化粧品。茉莉花まりかにとって、何よりも力をくれるものだった。手に取って、しばらく見つめていた。
「これも、試験のときのお守りにしましょう。」
 試験では化粧はしないため、パレットを小さなファスナーつきのポリ袋に入れて、かばんに入れて持っていくことにした。

 あっという間に試験の日々が終わり、卒業式を迎え、季節は少しずつ、春へと向かい始めた。冬の寒さの中に、少しずつ混じってくる春の気配に、ある人はうきうきとし、またある人は憂うつになり、さらに別の人は春ならではの行事の計画を立てるなど、人の数だけ、心が動かされていた。
 卒業式が終わっても、しばらくは学校や先生に用事があるため、おのおのが、都合のつく日に学校に訪れる。受験結果や最終的な進路の報告をしたり、遅くまで試験のある者は、勉強内容を先生に聞きに行ったり、単純に、クラブ活動などの後輩や顧問の先生にあいさつに行ったりと、目的はさまざまだ。
 「春の陽気」という言葉がよくあてはまるような、風がなく天気の良いある日、茉莉花まりか礼諒なりあきとともに、進路の結果報告をするために、吉川よしかわの運転する車で、学校を訪れた。
 職員室へ入り、担任だった先生を探して歩いていくと――級友だったかつら和奏わかなたちがいた。ちょうどかつらたちも、進路の結果報告をしに、学校へ来たようだった。茉莉花まりかたちもそうであるが、すでに卒業した身であるということで、私服を着ていた。
「あら、茉莉花まりかさんに笹原ささはらくん。進路結果のご報告にいらしたの?」
 かつらがふだん通りの、冷静かつあたたかみのある態度で尋ねる。
「ええ、そうよ。先生、わたし、無事、第一志望の大学に合格しました。」
 かつらに答えた後、先生のほうを向いて、茉莉花まりかは自分の受験の春を報告した。
「僕も、第一志望の大学に合格しました。」
 続けて礼諒なりあきも、喜びの報告をおこなう。
「わあっ! 二人ともすごいね! おめでとう!」
 和奏わかなが笑顔になり、軽い拍手を送った。2秒ほどしてはっとした様子で拍手を止め、あわててまわりを見回していた。
「大丈夫よ、和奏わかなさん。今、進路の報告をしている人はいないみたいだし。」
 かつら和奏わかなの意図にすぐに気づくと、優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう。さすがかつらちゃんだね。医学部に現役合格もうなずけるよ!」
 和奏わかながうれしそうに、両手を握り、顔の横に持ってきていた。
かつらさん、医学部に合格したの? すごいわね。おめでとう。」
 茉莉花まりかは驚きと祝福の色を同時に浮かべ、笑顔になった。
「ありがとう。でも別に、茉莉花まりかさんほどではないわよ。わたしは医師になりたいという、明確な自分の意志があるもの。」
「うんうん! かつらちゃんなら、絶対いいお医者さんになれるよ!」
 和奏わかなが自分のことのように、いや、自分のこと以上に、はしゃいでいる。
「そういう和奏わかなさんは、音大には行かなくてよかったの?」
「あっうん、まあね……。」
 かつらの鋭い質問に、和奏わかなは一瞬ひるんだように見えた。
「家の事情もあるし、わたし自身の事情もあるからね……。でも、親が、バイオリンもサックスも、あとピアノも、レッスンを続けていい、って言ってくれたの。だから、大学で文化の勉強をしながら、曲もいっぱい作って、発表していく予定だよ。」
「あら、それはよかったわね。」
 希望に燃えているような、和奏わかなのやや大げさなポーズと、かつらの突っ込み。二人のいつものやり取りも、もう見納めかと思うと、茉莉花まりかはつかみどころのない寂しさを覚えた。
「って、わたしたちばかり話しててごめんね。つむぎちゃんと千代ちよちゃんも、一宮いちのみやさんたちに報告してあげて。」
 和奏わかなは、「つむぎ」「千代ちよ」と呼ばれたそれぞれ女子生徒たちに、話の主役を渡すことにした。先生への用事が終わったため、騒がしくならないようにと、かつらが、職員室を出ることを提案した。
 皆で廊下をゆっくりと歩きながら、つむぎ千代ちよは、それぞれ簡単に、進路を報告した。
「わたしはテキスタイルデザイナーを目指しているのだけれど、服飾系の、3年制の専門学校に入学するわ。」
 つむぎが言った。
「わたしも、第一志望の外国語大学に合格したよ!」
 千代ちよが言い終わったか終わらないうちに、和奏わかなが、
千代ちよちゃんは、例のあの人と同じ大学なんだよねー!」
と、うれしそうに言った。
「例のあの人、って?」
「ちょっと、和奏わかなちゃん!」
 茉莉花まりか千代ちよが、ほぼ同時に言った。千代ちよは少し赤くなっている。
「別にいいじゃない。前、一宮いちのみやさんがいるときにも、この話したし。」
「まあ、そうだけど……。」
 無邪気な和奏わかなの笑顔に、千代ちよは少し引っ張られているようだった。和奏わかな茉莉花まりかに説明する。
「ほら、前に恋愛ドラマの話をしたとき、千代ちよちゃんが、恋人ができたって言っていたじゃない。千代ちよちゃん、たまたまその人と同じ大学志望になって、受験勉強の励みにしていたんだって! 好きな人と同じ大学なんて、大学生活が楽しそうだよね……。」
 言いかけて、和奏わかなは口に手を当てた。茉莉花まりかの顔を見るのが怖くなり、目をつぶって下を向いている。
「ごめん、一宮いちのみやさんは、笹原ささはらくんとは違う大学なんだよね……?」
「えっ!?」
 今度は茉莉花まりか礼諒なりあきが、同時に驚く。なぜそこで謝られるのか、気持ちを見透かされているような気がして、二人の頬が赤く染まっていく。
「た、確かに、礼諒なりあきさんとは違う大学だけれど、それは最初からわかりきっていることだし、謝ることはないわ。」
 茉莉花まりかは冷静さを装い、声の震えを抑えるようにして言った。少しのの後、和奏わかなは目を開けてゆっくりと上を向き、茉莉花まりかを見た。
「そうなんだ。失礼なこと言ってごめんね、一宮いちのみやさん。」
「いいえ、お気になさらないでね。」
 茉莉花まりかの言葉に安心したのか、和奏わかなはほっと息を吐いた。そしてすぐに、礼諒なりあきの顔を見て言った。
笹原ささはらくんは、一宮いちのみやさんと同じ大学には行かなくてよかったの? 執事として、一宮いちのみやさんについていったりとか、しなくていいの?」
 和奏わかなが投げかけた純粋な疑問に、礼諒なりあきは優しく答える。
「うん。茉莉花まりか様が、自分の行きたい大学に行けばいい、と言ってくれたから、ご厚意に甘えさせていただくことにしたんだ。」
「そうなんだ。一宮いちのみやさんってやっぱり、一流のお嬢様だなあ。しっかり自立しているんだね。」
「それに……僕の学力じゃ、茉莉花まりか様と同じ大学は目指せないよ。」
「あっ! ごめん、笹原ささはらくん!」
 礼諒なりあきの軽い苦笑いに、和奏わかなは申し訳なさそうに、手をぶんぶんと振って、慌てていた。礼諒なりあきは怒る様子もなく、穏やかな笑みを見せていた。茉莉花まりかは楽しそうな笑顔を見せながら、その場のやり取りを見ていた。
「さて、報告も終わったことだし、そろそろ帰りましょうか。」
 かつらが場をまとめ出す。茉莉花まりかたち6人は、進路以外のことについても、あらゆる雑談を交わしながら、校舎の玄関と向かって歩いていき、やがて外に出た。
 校舎に入った時と同じく、風はなく、春の薄い青空から、穏やかな陽光が降り注いでいる。芽吹き始めた木々と、鳥のさえずり。足元には、黄色い花が、低めの位置で咲いている。
 6人はそのまま校門まで行き、最後の別れのあいさつをした。
「では茉莉花まりかさん、笹原ささはらくん、お元気でね。」
「わたし、絶対すごい作曲家になるから! そしたら一宮いちのみやさんに、CDとか音源を送るね!」
「機会があったら、また会えるわよね。その日を楽しみにしているわ。」
「お互い、充実した大学生活を送ろうね。」
 かつらたちが、口々に、茉莉花まりか礼諒なりあきに言葉をかける。茉莉花まりか礼諒なりあきも、
「皆さん、ありがとう。皆さんこそ、お元気でね。夢が実現することを祈っているわ。」
茉莉花まりか様に良くしてくれて、本当にありがとう。お世話になりました。」
と、今の思いを言葉に込めた。
 名残惜しさを漂わせながら、それぞれの家路へと向かっていく。茉莉花まりかは遠ざかっていく4人の背中を、ぼんやりと見つめていた。やがて、茉莉花まりかの目から、何滴かのしずくがこぼれ落ちた。茉莉花まりかははっとして、自分の顔を流れる涙に気づかれないよう、急いで顔をそむけたが、礼諒なりあきは、ほんの一瞬をきっちりととらえていた。
 少し経ったとき、礼諒なりあきの携帯電話に、吉川よしかわから連絡が入った。吉川よしかわは、二人を送ったついでに用事を済ませていたとのことで、今は学校へ向かっている途中だという。茉莉花まりか礼諒なりあきは、しばらく、いつもの場所で、吉川よしかわを待っていた。
「お嬢様、ここでご一緒に吉川よしかわ様を待つのも、今日が最後ですね。」
「ええ、そうね。あっという間だったわ。」
「やはり、寂しくていらっしゃいますか? ……先ほど泣いていらっしゃったのも……。」
「えっ!? な、泣いてなんか……。」
 礼諒なりあきの思わぬ言葉に、茉莉花まりかは驚き、強めの口調で否定の態度を見せたものの、すぐに弱気な声になった。
「泣いた、というほどでもないけれど、確かに涙は出たわね。礼諒なりあきさん、ちゃんと見ているのね……。」
 茉莉花まりかは少し恥ずかしそうに、肩を縮こまらせ、手を体の前で、下のほうで軽く組んでいる。
「あ、あの、申し訳ありません……。」
「いいえ、執事としては、とても優秀な行動だと思うわ。」
 しゅんとしている礼諒なりあきをなだめるよう、茉莉花まりかは優しく言った。
「別れが寂しいというのももちろんあるわ。かつらさんたちには、本当に良くしていただいたし。でも、それだけではないわ。ここからは、礼諒なりあきさんだけに話せることよ。」
「え、もしかして、お嬢様……。」
「うらやましいのよ。かつらさんたちは、本当の自分の目標に向かって、進んでいけるもの、ね。わたしは、一宮いちのみや家の家業の勉強のために、大学に行くわけだし、つい、比べてしまうわ。もう、慣れたといえば慣れたけれど……。」
 一度乾いたかと思っていた涙だったが、ふたたび目からこぼれ始めた。とめどなくあふれ、茉莉花まりかの顔をじっとりと濡らしていく。
「やっぱり、本心では慣れることなんて、できないものね……。本当はこんな気持ちでいては、いけないのに……。」
 礼諒なりあきは慌てて、自分の小さなかばんから清潔なハンドタオルを取り出すと、茉莉花まりかの涙をそっとぬぐった。茉莉花まりかはされるがままといった様子で、だまって礼諒なりあきの行動に身を任せていた。
 それほど経たないうちに、茉莉花まりかはなんとか落ち着きを取り戻したが、ずっと無言のままだった。礼諒なりあきは、何か言おうとするものの、かける言葉が見つからない。ただひたすら、自分も静かに、茉莉花まりかのそばを保つことしかできなかった。
 やがて吉川よしかわの車が到着し、二人は車に乗って、一宮いちのみや家の屋敷へと帰った。
 数日経って月が変わり、茉莉花まりか礼諒なりあきは、それぞれの大学で、入学式を迎えた。茉莉花まりかには重元しげもと桜子さくらこが、礼諒なりあきには吉川よしかわが、保護者として、入学式に出席した。翌日からも、大学生活についての説明を受けに行くなどし、講義が始まる前から忙しかった。