一生、お仕えします その14

第14話 憂うつな外出

 茉莉花まりか礼諒なりあき、それぞれの大学の講義が始まって、3週間ほどが経った。週を3回こなすということは、各講義を3回ずつ受けるということであり、そのくらいの日数が過ぎれば、大学の講義や生活というものにも、なんとなく馴染んできていることを実感する。
 茉莉花まりかは毎日、吉川よしかわや、一宮いちのみや家の運転手の運転で大学へ通い、礼諒なりあきは、日によって、一宮いちのみや家の車で送ってもらったり、自分で公共交通機関を使うなどしたりして通っている。二人とも、語学や、学科の必修科目で顔を合わせる相手ができ、友人関係もできつつあった。少しずつ暖かくなっていくような、まだほんの少し寒さが残っているような今の時季、大学の疲れが出ないようにと、礼諒なりあき茉莉花まりかの体調に目を配る。茉莉花まりかと同じ大学でないことは心残りだったが、お互いが屋敷にいるあいだはきちんとお嬢様のことを見ていよう、そう心に刻みながら、ふたたび執事見習いとしての仕事を、以前のようにおこなっていた。
 受験生活も終わったということで、礼諒なりあきが夜に茉莉花まりかの部屋にお茶を持っていく仕事も、以前と同じようにこなしていた。すっかりと慣れた手つきで、以前と変わらずお茶を淹れる。美しい緑色と、ふわりと立ちのぼる香り。部屋の小さなテーブルの前に座り、茉莉花まりかはいつも、淹れられたお茶を愛おしそうに見つめてから、ゆっくりと飲み干すのだった。
「お嬢様、レポートのご提出、お疲れさまでした。今日はかぶせ茶をお淹れしました。」
 礼諒なりあきは静かに、茉莉花まりかに湯飲みを差し出した。
「ありがとう。かぶせ茶、いいわね。ふだんは煎茶や玄米茶だから、気分も変わるし……。礼諒なりあきさんのお心遣いが、とてもうれしいわ。」
 茉莉花まりかはほっと微笑んで、礼諒なりあきに答えた。かぶせ茶は、煎茶と玉露の中間くらいの位置づけということで、茉莉花まりかは「少しだけ特別」なときに飲むことが多い。名家と言われている家の生まれとはいえ、いやだからこそ、ぜいたくは自分には似つかわしくないと、ふだんはいわば質素を心がけている。それをわかっているからこその、礼諒なりあきのお茶の選択に、体だけでなく、心もあたたまる思いだった。大学に入って初めてのレポート提出を終え、一息つきたい茉莉花まりかに、お茶のうまみがじんわりと浸透していくようだった。
 茉莉花まりかがお茶を飲みながら、そして飲み終わった後も、二人はお互いの大学について、語り合う。まだまだ新鮮なことばかりで、話題は尽きないようだった。
礼諒なりあきさん、大学にはそろそろ慣れた?」
「はい、おかげさまで、少しは……。1時間の講義が90分というのには、どうしても長いと思ってしまいますが……。」
「ふふ、確かにそうね。でも、なんだかんだ言って、面白い講義のときには、90分なんてあっという間だわ。」
 楽しそうに話す茉莉花まりかに、礼諒なりあきは安堵した様子を見せながら、質問を投げかけた。
「お嬢様、面白いとか、好きと思える講義が見つかったのですか?」
「ええ、いくつもあるわ。語学は、今まで学んだことのない外国語が新鮮だし、学科の科目も、興味を持てるような内容が多いのよ。この学部に入ることができて、本当によかったわ。」
 茉莉花まりかは声をはずませて、話を続ける。
「それからね、空き時間ってあるかしら? 大学では自分で時間割を組むから、必修科目や受講したい科目の開講時間の関係で、講義と講義のあいだが空くことがあるわよね。」
「そうですね。わたしにも空き時間があります。」
「空き時間にはね、図書館で本を読むことが多いの。大学の図書館って、いろいろな本があって、面白いわね。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきに、満面の笑みを向ける。礼諒なりあきは胸の高鳴りと、茉莉花まりかの語りに対する安心感とを同時に覚えていた。頬が赤くなりつつある気がするのを必死で抑え込み、茉莉花まりかに対し、祝福を述べる気持ちで、言葉をかける。
「お嬢様、わたし、今とても安心していますし、うれしいです。」
「え? 何が?」
 茉莉花まりかは少し怪訝そうに、礼諒なりあきを見つめた。
「お嬢様が、こんなに楽しそうに大学のことをお話しされていて、ちゃんとご興味のあることを学ばれているのが、わたしとしても、とても幸せなのです。失礼ながら、お嬢様はいつも、とてもおつらそうになさっていたので……。正直申し上げますと、大学でもやりたいことがなされなくて、苦しまれるのではないかと心配しておりました。」
 礼諒なりあきが言い終わると、茉莉花まりかはふっとため息をついて、あきらめの混じったような顔になった。
「そうね……。どちらにしても、一宮いちのみや家を継ぐための勉強ではあるわね……。とはいえ、大学の勉強にも相性があるからと、ある程度は好きな学部を選ばせてもらえたことには、感謝しているわ。」
 茉莉花まりかはそう言うと、下を向いてだまった。礼諒なりあきは自分の発言を後悔し、胸がずきずきと痛むのを感じた。
「あの、その、申し訳ありません、お嬢様……。」
 しどろもどろになった礼諒なりあきを気遣うように、茉莉花まりかはふたたび上を向き、礼諒なりあきを見つめると、優しい声色で言った。
「いいえ、礼諒なりあきさんは何も悪くないわ。大学は楽しいから、よかったと思っているし。……それにね、わたしには、大切な時間があるから、それだけでいいの。」
「大切な時間、ですか?」
 礼諒なりあきが、茉莉花まりかの答えを知りたがっている。茉莉花まりかは軽く息を吸うと、恥ずかしそうに、ややうつむきながら、手はひざの上に置いて、言葉を発した。
「あのね、礼諒なりあきさん、わたし、その、好きなの……。」
「え!? 何がですか!?」
 礼諒なりあきは驚いたように、ぐっと握った手には汗がにじみ、自然と体をこわばらせていた。茉莉花まりかはうつむいたまま、言葉を続ける。
「あ、あの、今のこの時間が好きなの。礼諒なりあきさんが淹れてくださったお茶を飲んで、こうして礼諒なりあきさんとお話する、この時間が……。それだけで、とても幸せなの。だから、礼諒なりあきさんと別の大学でも、がんばれるわ。いつもありがとう。」
 言い終わると、茉莉花まりかは手をテーブルの上に置き、顔を上げた。頬がほんのりと赤みを帯びているように見える。
「こちらこそ、ありがとうございます。お嬢様にお仕えしている身として、そのように思っていただけていること、幸せに存じます。」
 礼諒なりあきは、茉莉花まりかの表情に、ほのかな期待を抱きつつも、すぐに打ち消し、執事としての態度を表した。
 茉莉花まりか礼諒なりあきに、お茶のおかわりを頼んだ。礼諒なりあきは急須の茶葉を、使った茶葉を入れるための器に捨て、茶筒から新しい茶葉を入れて、急須にお湯を注いだ。茉莉花まりか礼諒なりあきの手つきを、じっと眺めている。
 やがて湯飲みにお茶ががれ、礼諒なりあき茉莉花まりかにお茶を差し出した。
 お茶を飲みながら、茉莉花まりかが思い出したように、先ほどまでとは話題を変える。
「そういえば、明日は『デート』だったわね、上月こうづきさんと。」
 不満そうにする茉莉花まりかに、礼諒なりあきは心配そうに声をかける。
「お嬢様、やはり憂うつでいらっしゃいますか?」
「ええ、はっきり言うと、そうよ。だって、親が決めた相手だもの。それだけで、悔しくてたまらないわ。それなのに、これからも何度も、一緒に出かけないといけないだなんて……!」
 茉莉花まりかが少し怒ったようになったため、礼諒なりあきは慌ててなだめようとする。
「ですがお嬢様、上月こうづき様は、その……わたしから見ると、とても素敵な方で、結婚相手には申し分ないと思いますし、いいところがわかってくれば、お嬢様も、ご好意をお持ちになることもあるのではないかと……。」
 礼諒なりあきは、体の前で両手を組んだまま、下になっている手で、無意識に服の布地をつかんでいた。
「それがやっかいなのよ。いい人だからこそ、ね……。」
 礼諒なりあきの言葉を受けて、茉莉花まりかは沈んだように、肩を落とす。礼諒なりあきは、今の自分にできる、可能な限りの誠意を込めて言った。
「お嬢様、旦那様や奥様がお決めになったご結婚に、ご納得がいかないことも多々あるでしょうが、わたしが執事として、これからもずっと、いつなんどきでも、全力でお嬢様をお支え申し上げます。ですからどうか、お心を明るいほうにお向けくださいませ……。」
 礼諒なりあきが言い終わると、茉莉花まりかは何も答えず、部屋がしんとする。気まずくなりかけたとき、茉莉花まりかが口を開く。
「執事、ね……。」
 ふと何かを思いついたように、茉莉花まりか礼諒なりあきのほうを向き、目を見つめた。
「ねえ、礼諒なりあきさん、もし礼諒なりあきさんがわたしの執事ではなかったら、こんなに親しくなれたかしら。そもそも、礼諒なりあきさんと、出会えたかしら……。」
 どこか不安げに、表情を曇らせる茉莉花まりか礼諒なりあきは気の利いた言葉をかけることも考えたが、どうしても、「忠実な執事」としての言葉しか、口にすることはできなかった。
「正直申し上げますと、それは、わかりかねます……。ですが、どんな可能性を考えたとしても、わたしはきっと、執事として、お嬢様と出会うしか、道はなかったのでしょう。わたし自身のことは、もはや、お嬢様の執事としてしか考えられませんし、お仕えさせていただけることに、この上ない喜びを感じておりますよ。」
 まっすぐな礼諒なりあきの言葉に、茉莉花まりかは圧倒されつつも、底知れぬ寂しさも覚えた。
「そうね。きっと、わたしと礼諒なりあきさんは、主人と執事という関係でしか、出会えなかったのもしれないわね……。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきから視線を外し、大きなため息をついた。礼諒なりあきは何か言いたげにしていたものの、ただたまって、茉莉花まりかをそっと見つめていた。

 それから3週間ほど経った、休日の昼前。茉莉花まりかは部屋で、志歩しほと一緒に、慌ただしく外出の準備をしていた。
「お嬢様、ブラウスはこちらでよろしいですか?」
 志歩しほ茉莉花まりかの意思を確認する。
「別に、なんでもいいです。志歩しほさんが選んでくださる服なら、間違いはないでしょうし……。」
「では、こちらにいたしますね。お嬢様、あまりお時間がありませんので、早めに着替えをいたしましょう。」
 そう言うと志歩しほは、茉莉花まりかが今着ている服を脱ぐのを待った。脱ぎ終わると、選んだブラウスを素早く茉莉花まりかに着せ、その合間に脱いだ服をたたむなど、あちらこちらに動いていた。
「ごめんなさい、志歩しほさん。わたしの用事なのに、もたもたして、決めることができなくて……。」
 着替え終わった茉莉花まりかは、しゅんとした様子で、志歩しほに謝罪の言葉を述べる。志歩しほは戸惑うような笑顔で、
「いいえ、しかたないと思いますわ。お嬢様のお気が進まれませんもの……ね……。」
と返した。
 志歩しほが選んだ服は、いつも茉莉花まりか拓真たくまとの外出時に着ているような、特に代わり映えのしないものだった。綿めんと絹をほどよい割合で混紡した、薄桜うすざくら色の無地の平織ひらおり生地を使った長袖のブラウスは、独特の上品な光沢感があり、軽いざらつきを含んだ、すべるような手触りが、肌に不思議な感触を与える。小さめの丸衿が、かわいらしさを表現し、縦に3本ずつ入れられたピンタックが、ほどよく印象的だった。薄手の合繊の平織りの布地で作られた、濃紺に白の小さい水玉柄のスカートは、ひざ下丈で、均等に寄せられた細かなギャザーが、茉莉花まりかの体のシルエットを美しく引き立てていた。
 茉莉花まりかはドレッサーの前に座り、志歩しほが化粧を始める。どの化粧品にするか、などを話しながら、今日の外出についても話し始めた。
「なんだか、毎回こんな気持ちで出かけて、それで結婚話を進めるだなんて、上月こうづきさんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。」
「でも、いつもだいたい上月こうづき様とは、お話がはずんでいらっしゃいますよね?」
「ええ……でもそれは、ただ上月こうづきさんが、気を使ってくださっているというだけなんです。わたしも、おかげさまで話を合わせることはできるので、苦痛というほどではないのですけれど……。やっぱり、心は晴れないのです。」
「お気持ちお察しいたします、お嬢様……。」
 志歩しほは顔に切なさを出しながらも、てきぱきと化粧を進める。茉莉花まりかの顔が、化粧で美しく仕上がっていくのと反比例して、茉莉花まりかの心は悲痛さを増していく。
「もし、相手が上月こうづきさんではなくて……。いえ、なんでもありません。」
 つい口を滑らせそうになったが、慌てて止めた。志歩しほは何も指摘せずに、ドレッサーの引き出しを開けて、小さなアイシャドウのパレットを取り出し、茉莉花まりかに見せた。
「お嬢様、今日もこれをお使いしますね。」
「ありがとうございます、志歩しほさん。いつも通り、あまり目立たないようにお願いしますね。」
 志歩しほ茉莉花まりかに言われた通り、下地的に、そのアイシャドウを使った。
 茉莉花まりかにとって、心の支えになっている、礼諒なりあきから贈られたアイシャドウ。拓真たくまに申し訳ないと思いながらも、拓真たくまと会う時は、毎回ほんのりとつけている。もし相手が礼諒なりあきなら、もっと堂々とつけられるのに、そしてつけたら、礼諒なりあきに喜んでもらえるかもしれないのに――。考えてもどうしようもないが、つい、頭に浮かぶ。そのたびに、茉莉花まりかは自分の気持ちを「修正」するのだった。
 身支度が終わると、茉莉花まりか志歩しほは居間に行った。居間では、礼諒なりあきも待機していた。今日は拓真たくまが、上月こうづき家の執事とともに迎えに来ることになっており、拓真たくまたちが来るのを待っていた。志歩しほは薄青のカットソーに無地の黒のパンツ、礼諒なりあきは、青と緑が主に使われているチェック柄の生地に、衿とカフスが白のシャツを着、ボトムにはやや色落ちさせた紺のジーンズと、簡素な服装をしていた。
 居間のソファに座っているとき、茉莉花まりかは大学に入ってから、拓真たくまと会ったときのことを思い出していた。見合いのときに言われた通り、茉莉花まりかが大学生になった後、今までに何度か会っていた。お互いの家に行き、客間で話をしたり、今日のように外出、つまりはデートのようなことをしたりと、表面的には、交際している恋人同士と言えなくもなかった。とはいえ茉莉花まりかにとっては、親が決めた相手と義務で会っているだけであり、憂うつでしかなかった。確かに拓真たくまは優しく、会話もリードしてくれて、良家の令息らしい人柄の良さがある。だがかえって、茉莉花まりかを悩ませる原因になっているだけだった。
 茉莉花まりかがどんよりとした考えを巡らせていると、拓真たくまたちが到着したとの知らせがあった。茉莉花まりかは立ち上がり、礼諒なりあき志歩しほとともに、屋敷を出た。
 拓真たくまは白の平織りの長袖シャツを、第2ボタンまで外して着ていた。台衿だいえりやカフスの裏からは、さりげなく濃色の柄生地をのぞかせ、おしゃれな雰囲気を演出している。シャツの下には、裏の生地と同じような色合いの、半袖のTシャツを着ていた。無地のカジュアルな濃色のパンツはややゆとりがあり、拓真たくまをすらりと見せていた。拓真たくまの服装を見た礼諒なりあきは、ふと、何か負けたような気持ちを、一瞬だけ感じた。
 今まで何度かそうしたように、車に乗り込み、目的地へと向かう。上月こうづき家の執事が運転し、礼諒なりあき志歩しほも一緒に行く。礼諒なりあきたちが行くのは、茉莉花まりか拓真たくまの安全のために見守る役目や、きちんと打ち解けられているかを確認する、という理由があった。その日によって違うが、礼諒なりあき志歩しほ吉川よしかわのだれかや、上月こうづき家の執事がその役目を果たす。移動中以外は、少し離れたところで、二人の様子や周囲の状況に気を配っていた。
 車の中で、少し会話を交わしつつ、やがて、街外れの静かな場所にあるレストランに到着する。今日は、昼食に合わせて、時間を約束していた。さっそく店に入り、互いの好きなものを注文する。礼諒なりあき志歩しほたちも、少し離れた席で、二人の様子を見ながら、自分たちの分も注文していた。
 料理を待っているあいだ、二人は適当な話題を探し、会話をする。何度か会う中で、将来夫婦になるからと、二人はいつしか、くだけた言葉遣いで話すようになっていた。とはいえ茉莉花まりかは、最初は戸惑っていた。茉莉花まりかはたいていの場合、年上の相手には、少なくとも丁寧語で話している。だが拓真たくまは、夫婦になったら対等で、年は関係ない、と、少しずつ、茉莉花まりかに言葉遣いを変えていくことを促した。拓真たくまは、茉莉花まりかが年齢というよりも、一人の人間同士の関係として、拓真たくまに対して線を引いていることを感じ取っていた。言葉遣いから始めて、徐々に茉莉花まりかの心を開いていけないか、と考えたようだった。茉莉花まりかも、あまりかたくなになるのもよくないと感じたのか、近頃は、拓真たくまとくだけた言葉遣いで会話することに、だんだんと慣れてきているようだった。
茉莉花まりかさん、このお店はどう? 僕の好きなお店で、けっこう食べにくるんだ。」
 拓真たくまがうれしそうに、茉莉花まりかに話しかける。
「そうなのね。雰囲気もおしゃれだし、素敵だわ。あとは料理の味ね。」
「味はもちろん、僕が保証するよ。」
「楽しみにしているわ。」
 茉莉花まりかはくすりと笑った。
 少し会話がとぎれたとき、茉莉花まりかはあらためて、今いるレストランを見回した。掃除の行き届いた店内は、黄みがかった、落ち着いた色合いの照明に、淡い無地のテーブルクロス、控えめに飾られた絵と、食事の雰囲気を醸し出している。中綿なかわたのふかふかとした弾力が心地よいいすに座り、拓真たくまと向かい合っている。いつも拓真たくまは、茉莉花まりかが自然と奥側の席に座るように、さりげなく行動している。ほどよいざわつきも、今はさざ波の中にいるような気分にさせてくれていた。
(本当に、素敵なレストランね……。もしもここで……。いえ、やめましょう。)
 茉莉花まりかは、頭をよぎりそうになった考えを、さっと打ち消した。
 しばらくすると、料理が運ばれてきた。ちょうどよいと感じる量で、盛り付けの美しさは、見た目からも茉莉花まりかを楽しませてくれる。もったいないような気持ちになりながらも、美しい完成形を崩しながら、少しずつ口に運んでいく。
「おいしいわ。さすが、上月こうづきさんの好きなお店ね。」
「本当? よかった。茉莉花まりかさんにも、このお店を気に入ってもらえたら、うれしいよ。」
 拓真たくまは微笑んだ。
 食べながら、二人の話題は、茉莉花まりかの大学生活のことに移っていった。入学してしばらくのころの、緊張や不安の気持ちはすっかりなくなり、大学生活を楽しんでいる。茉莉花まりか拓真たくまにそう語った。
「そうか、ほっとしたよ。大学は、高校までとはけっこう違うから、僕も最初はあれこれと迷ったんだ。茉莉花まりかさんはどうなんだろう、って、いつも気になっているよ。」
「そんなに気にしてくださって、ありがとう。上月こうづきさんも、自分の大学のことがあるのに……。」
 拓真たくま茉莉花まりかをいたく気にかけている様子に、茉莉花まりかは戸惑いの顔を見せる。拓真たくまの行動と言葉は、茉莉花まりかには予想外のようだった。
「だって、いずれ茉莉花まりかさんとは結婚する予定だからね。気にするのは当然だよ。」
 自分との結婚に、なんの疑問も不満も抱いていないように見える拓真たくまに、茉莉花まりかは怪訝そうな目を向けた。
「そうね……。上月こうづきさんとは、いずれ結婚するのよね……。」
 茉莉花まりかはそう言うと、うつむきながら食事を進めた。だがしばらくして別の話題に移ると、拓真たくまとはそれなりに話を交わしていた。
 いっぽう、礼諒なりあきたちも、自分の分の注文が来て、茉莉花まりかたちの様子を見たり、そのことについて話したりしながら、慌ただしく食べていた。
 二人がなんの話をしているのかは聞こえないものの、なごやかさが伝わってくるような雰囲気で、会話がだいたいうまくいっていることがうかがえる。志歩しほがほっと胸をなでおろし、礼諒なりあきと、上月こうづき家の執事に言った。
「今回も、お二人はきちんとお話をなさっているようで、安心ですわね。」
 礼諒なりあきはあまりしゃべらず、自分の料理と、二人の様子を交互に見ていた。決して顔には出すことはなかったが、心の中では、暗い色のもやもやが渦巻いていた。もし、拓真たくまと位置を変われるものなら――。考えてもどうしようもない、実現可能性などありえないことに、どうしても気を取られてしまう。だがそもそも、茉莉花まりかが自分のことをそういう目で見ていなければ、変わるも何もないのだ。そう自分に言い聞かせると、私情は意識の外に置き、仕事に徹することにした。
 食事が終わり、茉莉花まりか拓真たくま、そして礼諒なりあきたちも、店を後にした。いったん合流し、車に乗って次の目的地へと向かう。街外れにあった先ほどのレストランから、窓の外の景色がだんだんと都会のにぎやかさに染まっていくのを、茉莉花まりかは静かに見つめていた。
 やがて、人気ひとけの多い、今風の商店街――ショッピングモールへと到着し、茉莉花まりか拓真たくまは車を降りた。車は駐車場にめることにし、運転は上月こうづき家の執事に任せて、礼諒なりあき志歩しほも一緒に降りた。茉莉花まりか拓真たくまは、上月こうづき家の執事が来るのを待ちつつ、商店街の店を見始めた。
 屋外の長い遊歩道の両側には、あらゆる種類の店が並ぶ。少し曇りがちな空の下、茉莉花まりか拓真たくまは、お互いの興味のある店に、それぞれついていく。店の商品を見ながら、どのようなものを好むのか、相手のことを知ろうとしている。茉莉花まりかも、気が進まない外出とはいえ、拓真たくまが興味を示すものには、それはそれで刺激を受けるのか、真剣な態度で、拓真たくまの話を聞いていた。礼諒なりあきたちも、その様子を離れたところから見守っている。
 いくつかの店で、気に入ったものを買うなどしながら、どんどんと遊歩道を進んでいった。長い距離でも、店の外観や内装、商品に心を惹かれていると、長さもいい具合に打ち消され、疲れもさほど感じない。店は商品だけでなく、きらきらとした夢も売っている――。茉莉花まりかはなんとなくそう考えながら、隣にいる拓真たくまにも気を使いつつ、歩いていた。
 そのうち、店の域が終わりに近づき、広い公園が目に飛び込んでくる。公園の敷地に足を踏み入れ、あたりを見回すと、恋人同士と思しき二人組が、たくさんいることに気がついた。一人でいる者や、子どものいる家族連れらしき者、友人らしき数人グループも、もちろんいるのだが、やはり恋人同士が目立つ。自分の住んでいる地域の観光名所についての情報を思い出し、茉莉花まりかは悟る。
 ここは、恋人たちに人気の、デートスポットと言われている公園だった。
 まわりを囲む木々は、新緑が目にしみる。赤茶色のレンガ調の道を少し歩くと、やや遠くに、大きめの柵が見える。愛する者同士が、愛を誓った南京錠に鍵をかけて、取りつけるための柵。恋人同士の象徴だった。
 ふと、一組の男女が柵に近づいていき、仲が良さそうに、柵に南京錠を取りつけていた。離れているので、会話も聞こえず、表情もわからなかったが、二人の全身から喜びがあふれていることは、存分に伝わってきた。茉莉花まりかは思わず立ち尽くし、しばらく二人をぼんやりと見つめた後、深いため息をつく。
「いいわね、あの二人は、幸せそうで……。」
 思わず言葉が漏れる。聞こえないように小さく言ったつもりが、拓真たくまには聞こえていたようだった。すぐさま、拓真たくまが反応する。
「ごめんね、茉莉花まりかさん。」
「えっ!?」
 突然の謝罪の言葉に、茉莉花まりかは慌てて拓真たくまのほうを向いた。
「ごめんね、僕が結婚相手で……。」
 二度謝られ、茉莉花まりかはとっさに混乱する。
上月こうづきさん、どういうこと?」
 拓真たくまは一瞬間を置いたものの、ためらうような様子もなく、さらりと次の言葉を続けた。
茉莉花まりかさん、好きな人がいるよね?」
「ええっ!? えっと……それはその……。」
 拓真たくまの突然の問いかけに驚き、しどろもどろになる茉莉花まりか。心のうちを見透かされ、焦りを感じていた。だが、いずれ結婚するという位置づけにある相手に対して、不誠実なのもいただけない。茉莉花まりかは気を取り直し、自分の本心を、少しだけ出すことにした。
「ええ、上月こうづきさんのおっしゃる通りよ。でも、なぜわかったの?」
「まあ、なんとなくね。僕と会うのはあまり楽しそうではないというか、心ここにあらず、だよね。僕ではなくて好きな人とだったら、って考えているんじゃないかな?」
 自分の気持ちをぴたりと当てた拓真たくまに、茉莉花まりかはひるむ。
「ええ、そうよ。本当にごめんなさい……。」
「いや、謝ることはないよ。そもそも、親同士が決めた結婚なんだからね。」
「もしよければ……結婚話は破談にしてくださってもいいわ。」
 茉莉花まりかはわずかな可能性にかけて、自分の考えを口にしてみる。だが拓真たくまの反応は、予想外のものだった。
「いや、破談にはしないよ。だって、もし僕が破談にしたところで、また親が決めた相手との結婚になるだけだろうし、茉莉花まりかさんの好きな人とは、どうがんばっても結婚することは、いやそれ以前に交際することすら、許されないだろう?」
「え……?」
 拓真たくまは、自分の好きな人が誰なのか、気づいているのだろうか? 緊張で固まる茉莉花まりかに、拓真たくまはさらに続ける。
「だから、それならば、僕こそが、茉莉花まりかさんと結婚しようと思っているんだ。」
「で、でも、上月こうづきさんはそれでいいの?」
 やはり、自分との結婚になんの疑問も不満も抱いていないように見える拓真たくまの気持ちが見えず、茉莉花まりか拓真たくまに問いかける。
「僕はいいんだよ。子どもの頃から、親が決めた相手と結婚すると言われて育ったしね。そのあたりは割り切っている。それに、高校時代に、好きな人と両思いになれて、交際できたんだ。」
「そうだったのね……。」
「相手も、僕の事情をちゃんと知っている人だったから、期間限定でおつき合いする、って話になって、卒業と同時に別れたんだけど……。そういうわけで、もう恋愛に未練はない。だから茉莉花まりかさんと結婚することも、自然と受け入れられているよ。」
 拓真たくまの話に、納得したと思われた茉莉花まりかだが、まだ疑問は解決していないようだった。
「でも、上月こうづきさん……。いくら自分の意思ではないからといって、結婚する相手に好きな人がいるなんて、不誠実な話ではないの?」
 拓真たくまは態度を変えることなく、いつもの穏やかな顔で言う。
「まあ、一般的にはそうだよね。でも、茉莉花まりかさんにとっては、自分で決めた相手ではないからね。結婚だけじゃない、進路だって、一宮いちのみや家を継ぐと決められている。選択の自由なんてほとんどないだろう? だから、そのくらいの内心の自由は許されると思うよ。」
 ――とはいえ、将来妻となる人の心の中に、別の人がいることは、正直嫉妬するけどね。
 拓真たくまは言葉を飲み込み、茉莉花まりかに会話を譲る。
「ありがとう、上月こうづきさん……。でもなぜそこまで……。」
「なんだかんだで、僕は茉莉花まりかさんのことが、人として好きになったからね。茉莉花まりかさんと結婚して、良い家庭を築こうという気持ちもあるんだ。」
 良家の令息らしい、余裕のある言葉。拓真たくまも、進路も結婚相手も選べない、あきらめなければならない境遇であるだろうに、割り切るというよりも、自分の価値観として内面化しているような、懐の深さに、茉莉花まりかはただ圧倒され、言葉を失っていた。
茉莉花まりかさん、一宮いちのみや家の当主はとても重責だと聞いている。僕は、一宮いちのみや家の当主の夫として、茉莉花まりかさんを生涯ずっと支える覚悟を決めているんだ。だから、結婚は前向きに考えてほしい。」
 拓真たくまの言葉が、茉莉花まりかの体全体に、心の奥深くに、ずっしりと響いた。茉莉花まりかは頭の上に、精神的な、見えない重石をされている感覚に陥り、しばらく、その場から動くことができなかった。