一生、お仕えします その16

第16話 夢の後で

 見たことがない場所にいる。ふと横を見ると、礼諒なりあきがそばに立っている。何も言わずに、優しいまなざしで見つめてくる礼諒なりあき
 気づくと、そっと肩を抱かれ、顔を近づけられている。胸が高鳴り、受け入れる準備をする体勢を取った――。
「……夢?」
 はっとして、茉莉花まりかは目が覚めた。胸の鼓動が、夢から続いている。茉莉花まりかはそっと、胸に手を当てて、どきどきとした心臓の暴走を、しずめようとした。だが、容易に制御できるものではない。あきらめて、自然とおさまるのを待つことにした。
 布団からは出ず、目をつぶり、思いを巡らせる。昨夜のできごとの感触が、まだ体に残っている。全身で感じた、礼諒なりあきの優しさとぬくもり、そして強い想いに、思わず手を握らずにはいられなかった。茉莉花まりかは何度も、その感覚を体に刻みつけるように、頭の中で反芻した。
 いっぽうで、また別の感情も湧き上がってくる。茉莉花まりかは目を開けると、枕元の時計のほうを向いた。目に飛び込んできたのは、いつも起きるよりは、いくらか早めの時刻。残り時間の少なさに、無意識に、顔をしかめてしまう。いつも通り、話ができるだろうか? それ以前に、礼諒なりあきがいつも通りに起こしてくれるだろうか? そもそも今回のことを招いた原因は自分にあるのだから、謝るべきではないのか? 予想される気まずさに、茉莉花まりかの思考は、洗濯機のように、ぐるぐると回っている。
 やがて、部屋のドアから、ノックの音が響いた。茉莉花まりかの緊張は最高潮に達している。心臓の音が、より一層、大きくなってきた――。
「お嬢様、朝でございます。」
「えっ?」
 声を聴いたとたん、茉莉花まりかは一気に体の力が抜ける。部屋の外の声は、そのまま続けた。
志歩しほでございます。」
 ドアが開き、志歩しほが部屋に入ってきた。いつもは礼諒なりあきが持ってくる、寝起きに飲む水を、今は志歩しほが持っている。
 茉莉花まりかは起き上がり、不思議そうに志歩しほを見た。
志歩しほさん、おはようございます。今日は……礼諒なりあきさんではないんですか?」
「はい、お嬢様。礼諒なりあきさんは、ご自分の大学の件で急用ができたとのことで、急な休暇を取られました。」
「そうなんですか……。」
 茉莉花まりかが少し残念そうな顔をする。志歩しほは素早くそれを察した。
「申し訳ありません、お嬢様。やはり朝一番には、礼諒なりあきさんのお顔をご覧になりたいものですよね。」
「え!? そ、そんな、そういう意味では……!」
 どこかいたずらっぽく笑った志歩しほに、茉莉花まりかは思わず赤くなり、否定するような口調になった。
「お嬢様、隠したりなど、なさらなくても大丈夫ですよ。いえ、わたしの前ではどうか、お気持ちを表現なさってください。抑え込んでばかりでは、おつらいでしょう?」
 からかうような態度を一変させ、志歩しほは真面目に茉莉花まりかに向き合う。茉莉花まりかは一瞬、言葉を飲み込んだ。
「ひとまずお嬢様、お水をおぎしますね。」
 志歩しほは、持ってきた水をグラスに注ぎ、ベッドのサイドテーブルの上にそっと置いた。茉莉花まりかはグラスを手に持つと、ゆっくりと飲み干した。空になったグラスは、茉莉花まりかの手から志歩しほの手へと、素早く渡っていく。グラスの動きを眺めながら、茉莉花まりかはふっとため息をついた。
「なんだか、元気がおありではありませんが、どうかなさったのですか? どこかお悪いところでも?」
 志歩しほが心配そうに、茉莉花まりかに声をかける。
「いえ、体は元気です。心配をかけて、ごめんなさい。」
「それならよろしいのですが……。やはり、お元気がなさそうに見えます。心配事がおありではありませんか? それとも、もしかして――。」
 志歩しほは一瞬、上を向き、何かをひらめいたようになった。
礼諒なりあきさんと、何かおありですか?」
「えっ!? なぜそんなことを……。」
 唐突に礼諒なりあきの名前が出、茉莉花まりかは思わず大きな声を出す。
「やはりそうでいらっしゃるのですね。もしかして……礼諒なりあきさんと、想いを伝え合ったり、なさったのですか?」
「あ、あの、それは……。」
 志歩しほの勘の良さに、茉莉花まりかは顔を真っ赤にすることしかできない。その様子に、志歩しほもつられて顔が赤くなってしまう。志歩しほとしては、確信があって言ったわけではなかった。だがまさかの命中で、戸惑いも覚えた。
「あの、お嬢様、おめでとうございます。ではわたしはいったん、お水を片付けてまいりますね。」
 志歩しほは気を取り直してにこやかに言い、軽く頭を下げると、部屋を出ていった。
 志歩しほが身支度のためにふたたび戻ってくるまでのあいだ、茉莉花まりかは手洗いを済ませると、ドレッサーの前のいすに腰掛けた。
 志歩しほが部屋に来た後、茉莉花まりかはいつも通り、着替えや髪の手入れなどをおこなった。志歩しほは変わらぬ穏やかさで、茉莉花まりかの身支度を手伝う。志歩しほはときどき、話の中に礼諒なりあきの名前を出し、ささやかな応援の気持ちを表明した。茉莉花まりかにとっては、ほんの小さなひとかけらのような心遣いも、どっしりとした大きな岩のように、強く確かなものに感じられた。
 その後、いつものように朝食をとる。礼諒なりあきの給仕がない食卓は、寂しさと、安心したような気持ちが混ざり合い、食事を味気ないものにさせた。ほぼ毎朝、料理人が焼いてくれるパンの、ふだんと変わらないあたたかさと、ふわふわとした食感が、茉莉花まりかにひとさじの救いを与えた。
 食事が終わった後、茉莉花まりかはいつもと同じように出かける準備をし、吉川よしかわの運転で、大学に向かった。
 今日は、講義が2限目から5限目まである曜日だった。終わりは午後6時近くになる。車の中で、茉莉花まりかは腕時計の文字盤を見ながら、不安そうな様子で、今日の講義に思いをはせていた。
 2限目の講義が始まり、茉莉花まりかは意識して講義に集中しようとした。だが、気づくとうわの空になっている。そわそわした胸の感覚は、茉莉花まりかの心を容易に、「今ここ」の外へと引っ張ってしまう。それでも茉莉花まりかの頭は、今しなければならないことをするという価値観を持ち、未熟な精神を無意識にいさめているようで、我に帰るたびに、気を引き締めなければ、と自分に喝を入れていた。それでもやはり、心のざわめきには勝てそうになかった。
 2限目が終わり、昼食をとるために食堂へと歩いていたが、ふと立ち止まる。
(講義に集中できないのなら、帰るほうがいいのかしら……。)
 そう考えた後、すぐに後ろを振り返った。そこには、やや離れたところから、茉莉花まりかを見守る3人がいた。高校までと比べて、人の出入りが自由な大学で、茉莉花まりかの身を守るため、重元しげもとが雇った護衛の者たちだった。
(でも、ここで帰ったら、申し訳ないわよね? わたしのわがままだもの……。)
 護衛役の勤務時間は、当然ながら、茉莉花まりかが大学にいる時間と重なる。時間割通りに大学に来て帰るのならいいが、体調不良などで早く帰ったり、反対に、図書館や学生課に行くなど、講義以外の用事で、遅くまで残ったりすると、護衛の者たちの勤務時間も変わることになる。名家の令嬢として育てられた茉莉花まりかにとっては、ほかの理由ならともかく、単なる気分という、完全なる「わがまま」で護衛の者たちを振り回すことになると考えるのは、してはならないことに思えた。
 結局、茉莉花まりかは5限目まで講義を受けることにした。
 ただでさえ長い、90分という時間は、どこまでも長く、永遠に終わらないように感じられた。好きな講義でさえも、今日は興味を引かれなかった。当てられることが前提の、語学の講義が、今日はないことが幸いに思えた。
 ずっとそんな気分だったが、5限目も終わりに近づくと、今度は恐怖のような、緊張のような、なんとも言えない感情に支配され始めた。屋敷に帰ればいずれ、礼諒なりあきと顔を合わせなければならないし、礼諒なりあきの仕事上、茉莉花まりか礼諒なりあきと話す必要がある。「気まずい」という、甘えたことを言っている場合ではないことはわかっていた。だが、心の動きも、それからくる体の緊張感も、抑えることはできなかった。
 5限目が終わったとき、講義が終わった解放感よりも、これから立ち向かわなくてはならないできごとへの暗い想像で頭がいっぱいになり、足がすくんだ。そこを何とか奮い立たせ、茉莉花まりかは足早に、吉川よしかわの迎えの車へと向かった。

 重元しげもと桜子さくらこは、今日は外食だった。茉莉花まりかが席に着くと、志歩しほが隣に座った。重元しげもと桜子さくらこがいないときは、志歩しほが食事時の話し相手になるなど、茉莉花まりかを一人にしない工夫がなされていた。
 礼諒なりあきが、夕食のおかずを運んでくる。慣れた手つきで淡々と仕事をこなしている様子の礼諒なりあきに、茉莉花まりかは胸の奥が絞られるような思いだった。礼諒なりあきが隣にくるたびに、茉莉花まりかの体は固まってしまう。茉莉花まりかのためにと選択された献立も、喜ばしくはなく、またその心の曇りが、料理人への罪悪感を引き立たせていた。
 食べながら、これから迎えるお茶の時間の気まずさを想像し、つい箸が止まる。そのたびに茉莉花まりかは、雑念を振り払い、今に集中しようと、試みていた。
 茉莉花まりかが食事を始めると、礼諒なりあきはしばらく後ろで控えていたが、途中で吉川よしかわと交代する時間になった。
 礼諒なりあきは、交代のあいさつをして、ダイニングを出た。吉川よしかわはどことなく、ふだんよりも礼諒なりあきの声が小さいような、動揺をにじませているような、違和感を覚えた。だが礼諒なりあきにはときどきあることだと考え、何も聞かないことにした。
 茉莉花まりか礼諒なりあきがダイニングからいなくなったことで、つかの間の平安を得た。同時に、昨夜「あのようなこと」があったというだけで、こんなにも心があちらこちらに揺さぶられている自分が、未熟で情けなく思え、いたたまれなかった。
 ようやく食事を済ませ、いつしか部屋で、大学の勉強をしていた。講義に関する本を読んでいたが、内容が頭に入ってこず、何度も時計を見たり、背伸びをしたり、引き出しを開け閉めしたりしていた。
 やがて、時計の針が定刻を指す。その瞬間、部屋のドアを軽くたたく音が響いた。茉莉花まりかの緊張は、最高潮に達する――。
「お嬢様、礼諒なりあきでございます。お茶をお持ちしました。」
「ど、どうぞ、入って。」
 茉莉花まりかは慌ててしまい、言葉がつかえた。
 部屋に入った礼諒なりあきは、見慣れたお茶の道具を、静かにテーブルに置く。用意しながら茉莉花まりかと言葉を交わすこともあれば、特に何も言わない日もあるが、どちらであったとしても、自然なものとして受け入れられていた。だが今日は、無言の準備時間に、重苦しい空気を感じずにはいられなかった。茉莉花まりか礼諒なりあきに背を向けたまま、背後の礼諒なりあきの気配を感じ取っている。
 茉莉花まりかは机のいすから立ち上がろうとするものの、どうしても体を動かせない。
 そのうち礼諒なりあきは、湯飲みにお茶を注ぎ終わった。不思議そうな顔をして、テーブルへと来ないで机の前に座ったままの、茉莉花まりかのほうを向いた。
「お嬢様、お茶が入りました。」
「ええ、今そちらに行くわ。」
 茉莉花まりかは声を出したことで勢いがつき、いすからさっと立ち上がると、ゆっくりとテーブルへと歩いた。
 テーブルのいすに座ろうとしたとき、突然、礼諒なりあきがしゃがみ込んだかと思うと、床に頭をつけ、はっきりとした声で言った。
「あの、お嬢様、申し訳ありません!」
「え? 礼諒なりあきさん、いきなりどうしたの?」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの行動に、身の置き所を迷っている。礼諒なりあきは頭を上げずに続けた。
「ほかでもない、昨夜のことでございます。昨日はお嬢様のご意思も確認せずに、あのような、人として失礼なことを……。本当に、なんとおわびを申し上げればいいのか、見当もつきません。解雇されても仕方がないと、存じております。」
「解雇!? 待って、礼諒なりあきさん!」
 茉莉花まりかは思わず叫ぶと、自然と床にしゃがみ込み、礼諒なりあきと同じ目線になった。それに気づいたのか、礼諒なりあきが頭を上げる。
「解雇だなんて、そんなこと、わたしは思わないわ。そもそも、謝る必要なんてないわ。だってその……うれしかったの。」
 恥ずかしそうに、礼諒なりあきからやや顔をそむける茉莉花まりか
「わたし、礼諒なりあきさんとは、想いを通わせることすら、できるわけがないと思っていたわ。だから、夢みたいなの。好きな人が、礼諒なりあきさんが、わたしのことを好きと思ってくれて、キス……までしたのが……。」
 最後のほうになると、だんだん声が小さくなった茉莉花まりか。頬を赤らめ、手を口に添え、体全体を小さくまとめている。それはやがて礼諒なりあきにも伝わり、礼諒なりあきはやや下を向き、顔を赤くしていた。
 二人はしばらく床にしゃがみ込んでいたが、茉莉花まりかがふと立ち上がった。
「さあ、せっかく礼諒なりあきさんが淹れてくださったお茶があるんだもの、早く飲まなくてはいけないわね。」
 礼諒なりあきも気を取り直し、定位置についた。
 お茶を飲みながら、茉莉花まりかは一つの疑問を口にした。
「あの、礼諒なりあきさん、失礼なことを聞くけれど、今朝の休暇は、本当に大学の用事だったの?」
「はい、そうですが……。」
 礼諒なりあきは居心地の悪そうな顔をした。
「そう、それならいいのよ。もしかして、昨夜のことで、わたしが礼諒なりあきさんに気を遣わせているのではないかと、心配になっていたの。」
「それなら、ご心配には及びません。わたしは自分の感情のみで、仕事を放棄したりはいたしません。こちらこそ、お嬢様にお気を遣わせてしまい、申し訳ありません。」
 礼諒なりあきの顔には、霧が晴れたような明るさと、純粋な申し訳なさが、同居していた。
「気にすることはないわ。すべては主人としての、わたしの責任なのだから……。あのね、礼諒なりあきさん、わたし今日、ずっと気が気でなかったのよ。講義にも身が入らなかったわ。礼諒なりあきさんと顔を合わせたとき、きちんとお話できるかって、心配でたまらなかったの。だから、今こうしてちゃんとお話できて、うれしいという言葉のほかには見つからないわ。」
「お嬢様、実はわたしも、今日は講義に集中できなかったのです。お嬢様にお会いしたら、なんとお言葉をかければいいのやら、考えあぐねておりました。」
「まあ、同じね。違う場所にいても、好きな人と同じ気持ちでいて、心はつながっているみたいで、素敵だわ。」
「わたしもそう思います、お嬢様。」
 互いの考えを確認し合えたことで、二人はすっかり笑顔になり、同じ気持ちを「共有」していたことを笑い合った。
 だがすぐに茉莉花まりかは顔を曇らせ、不安そうな声を出す。
「このことが、お父様に知られないようにしないといけないわね。もし知られたら……礼諒なりあきさんがどうなるか、わからないもの。」
 重々しい茉莉花まりかの言葉に、礼諒なりあきは何も言えなくなった。沈黙が続く。
 やっとの思いで、礼諒なりあきは口を開く。
「お嬢様、どんなことがあったとしても、わたしは決して、お嬢様のおそばを離れたりはいたしません。ですからどうか、お心を安らかになさいませ。」
 礼諒なりあきはそう言うと、茉莉花まりかの手を取り、強く握った。二人はそのまましばらく、見つめ合っていた。

 それから何日か経った日、茉莉花まりかは大学の図書館にいた。講義に関する本や、自分が興味のある本を借りるため、さまざまな分野の本が並べられている棚を、あれこれと見ていた。
「あ! あったわ。礼諒なりあきさんが教えてくれた本……。」
 茉莉花まりかは1冊の本を手に取りながら、昨夜のお茶の時間の、礼諒なりあきとの会話を思い出し、自然と笑みがこぼれていた。
 礼諒なりあきが、1冊の本を持ってきて、興味を持てそうだと、茉莉花まりかに見せた。礼諒なりあきが大学で借りた本、とのことだった。試しに目次を見たり、ぱらぱらとめくったりして少し内容を読んでみると、確かに興味を惹かれた。じっくり読んでみたいと思ったが、又借りはよくないと思い、自分の大学の図書館で探してみることにしていたのだった。
 礼諒なりあきの大学にあった本が、自分の大学の図書館にもある。その事実に、茉莉花まりかは胸がおどるような気持ちすら湧いていた。  茉莉花まりかは愛おしそうに、その本の表紙をながめた後、本を抱えながら、ほかの場所へと移った。
 次に、大学の講義に関する本を何冊か選んだ後、息抜きになるような本はないかと探していると、ふと、背表紙の文字が目に留まった。
 「お嬢様」と「執事」の文字があるその本を、茉莉花まりかは思わず手に取った。てのひらよりいくらか大きめのその本は、若い人向けの小説であるらしかった。表紙には、少女と少年だと思われる、かわいらしさを意識した絵柄の絵が描かれている。
 胸の高鳴りを感じ、はやる気持ちで内容を確認すると、思った通り、主人公の令嬢と、主人公に仕えている相手役の、恋愛物語のようだった。
(この大学の図書館には、こんな本もあるのね……。)
 茉莉花まりかはどこか感慨深げに、ほかの本の上に加えると、貸出の受付で、借りる手続きをした。
 屋敷に帰り、自由な時間になると、茉莉花まりかは真っ先に、「令嬢と執事の恋愛小説」を読み始めた。読みやすい文章で、また内容に引き込まれ、次から次へとページをめくっていく。文章量は多くなく、比較的早く読み終わったものの、中身の濃さに、すっかり心をうばわれてしまった。
 茉莉花まりかは軽いため息をつくと、頭の中で、今読んだあらすじを整理する。令嬢である主人公は、良い家柄の生まれであるため、政略結婚の「道具」にされるが、そのことに耐えられない。主人公には使用人の少年がついており、いつも主人公を支えている。想い合っている二人の恋愛。ある日主人公は決意する。家を、いやすべてを捨てて、愛する人と一緒になると。かくしてそれは成功し、主人公と使用人の少年は、めでたく結ばれた――。
 この話に、茉莉花まりかが自分を重ねて読んでしまうのは、当然のなりゆきだった。主人公の置かれている状況が自分と似ており、また主人公の性格も、上品でしとやかに描かれているため、好感を持つのはたやすいことだった。いつしか、まるで自分のことのように、物語の世界に入り込み、読んでいる途中、何度か涙を拭いたくらいであった。
 さすがに、ほかの者にこの本を見られるのがまずい、恥ずかしいと思ったため、お茶の時間などは、引き出しの中にしまっていた。だが、部屋で一人で好きなことをする時間になると、必ず一度は読み、返却日まで目一杯読むことに決めた。
 何日もそれを繰り返していると、茉莉花まりかはいてもたってもいられなくなってきた。物語に感化された、といえるのだろうか。茉莉花まりかは、主人公の令嬢と同じ行動に出たい、と思うようになってきた。茉莉花まりかは決意を固めつつあった。
 とはいうものの、やはり一人ではなく、誰かに頼りたかった。相談相手を考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは、礼諒なりあきにほかならなかった。本を見せることに抵抗はおぼえたものの、礼諒なりあきになら見せても大丈夫だと思い直し、お茶の時間に話をすることにした。
 夜になり、礼諒なりあきがお茶を持ってきた。いつも通りの慣れた手つきでお茶を淹れる礼諒なりあきを、茉莉花まりかはじっと見つめていた。
 茉莉花まりかの視線に気づいたのか、礼諒なりあきが、体をこわばらせ、
「あの、お嬢様、わたしに何か問題でもお感じでいらっしゃるのでしょうか?」
と、言いにくそうに聞いていた。茉莉花まりかははっとして、
「あ、ごめんなさい! 考え事をしていただけなの。礼諒なりあきさんはちゃんと、おいしそうにお茶を淹れてくださっているわ。」
と答えた。
 お茶が入ると、茉莉花まりかはゆっくりと味わいながら飲んでいた。そばで控えている礼諒なりあきが、今日あったことを話し始めた。
「今日の講義で、先生が面白い話をされたのですよ。『観光がっかり名所』についてなのですが、お聞きになりますか?」
「ええ、興味があるわ。ぜひ聞かせてくださるかしら?」
 礼諒なりあきは講義で聞いたことをそのまま話した。茉莉花まりかも楽しそうに、目を輝かせて話を聞いていた。
 話が終わると、次の話題に移った。
「聞かせてくださってありがとう、礼諒なりあきさん。ほかに面白いお話はないかしら?」
「そうだ、今日また大学で、面白そうな本を見つけました。まだ読み終わっていないのですが、終わったらお嬢様にもお見せします。」
「本、ね……。」
 今までの楽しそうな表情から一転、茉莉花まりかは急に、けわしさを顔に出した。
礼諒なりあきさん、実は、相談したいことがあるの。かまわないかしら?」
「なんでございましょう? わたしにできることでしたら、なんなりとお申し付けくださいませ。」
 茉莉花まりかの急な変化に、礼諒なりあきも急な動悸を感じたが、あくまで表面上は冷静さをよそおった。
 ふいに茉莉花まりかは立ち上がり、机まで歩くと、机から何かを取り出し、またお茶を飲むテーブルに戻り、立ったまま、礼諒なりあきに言った。
「この本を読んで、考えたことがあるの。」
 茉莉花まりかは引き出しから取り出したそれ――令嬢と使用人の恋愛小説を胸の前に掲げ、表紙を礼諒なりあきに見せた。
 礼諒なりあきの目が、表紙に書かれた題名の文字にくぎづけになる。「お嬢様」と「執事」の文字が、すぐに内容を予感させた。
「もしかして、『お嬢様と執事の恋愛小説』か何かですか?」
 勘の良さを見せた礼諒なりあきに、茉莉花まりかはだまってうなずく。
 少し経ってから、茉莉花まりかがそっと口を開いた。
「この本ではね、主人公は最終的に家を捨てて、想い人である執事の少年と結ばれるのよ。」
 茉莉花まりかのその言葉だけで、礼諒なりあきは悟った。次の瞬間、思わず茉莉花まりかを止めに入る。
「お、お嬢様、それはいくらなんでも、まずいのではありませんか?」
「なぜそう思うの?」
 思いがけず、茉莉花まりかの口調がきつくなる。礼諒なりあきはややひるんだが、茉莉花まりかを引き留めるように、思いを口にした。
「お嬢様、わたしはお嬢様のおつらいことや苦しいこと、そして喜びもお幸せも――すべてお受け止めする所存でございます。もしお嬢様と結婚させていただけるというのなら、わたしの望むところですが、それは許されていないでしょう。そのかわり、せめて、わたしは一生、執事として、お嬢様のおそばにおります。ですからどうか、それだけはおやめくださいませんか?」
「執事として、なんて――!」
 茉莉花まりかが声を荒げる。激しさが、口を伝って、次から次へとあふれ出していく。
「わたしは礼諒なりあきさんが、ずっと執事のままだなんていやなの。上月こうづきさんではなく、礼諒なりあきさんと結婚したいわ。一宮いちのみや家に生まれたせいで、好きな人と一緒になれないなんて、耐えられない。わたしはどこまで我慢すればいいの? そんなのはもう終わりにしたいの。礼諒なりあきさんと一緒になれるのなら、どんなにつらくても、それは我慢するわ。そして必ずや、幸せをつかんでみせる。そのためには、この家を捨てるしかないのよ!」
 礼諒なりあきが口をはさむすきもないまま、茉莉花まりかはうつむきながら、滝のように言葉を紡ぎ出した。やがて言葉の滝だけではなく、感情の滝も、目に見える形で流れてくる――いつしか、茉莉花まりかの目からは、涙が流れ出していた。
 礼諒なりあきは服のポケットから清潔なハンカチを出すと、茉莉花まりかの涙をぬぐい、茉莉花まりかに問いかけた。
「お言葉ですがお嬢様、もしお嬢様が一宮いちのみや家からいなくなったら、跡継ぎはどうなるのですか?」
 茉莉花まりかははたと涙を止め、礼諒なりあきを見上げ、気丈さを取り繕った。
「それは、養子を迎えればいいわ。過去にも例があるそうだから。もともと一宮いちのみや家は、そこまで厳密に、血筋にこだわっていないそうなのよ。望ましい、というだけで。」
「そうなのですか。」
「ええ。だから跡継ぎの点は、きっと問題ないはずよ。わたし、今からお父様に、話をしに行くわ。」
 茉莉花まりかはくちびるをぎゅっと結んだ。握りこぶしを作った手には、力が込められ、みなぎる決意で、まっすぐに立っている。
 目の前の姿に、圧倒された礼諒なりあきは、深くうなずくと、重々しく言った。
「承知いたしました。お嬢様のお望みとあらば、わたしもお嬢様と一緒になる覚悟を決めましょう。」
「ありがとう、礼諒なりあきさん。お父様は今、執務室にいると思うから、まずはわたしが一人で行くわ。礼諒なりあきさんは、執務室の近くで待っていてくださらないかしら。」
「はい、そのようにいたします。」
 茉莉花まりかは部屋を出、礼諒なりあきも後に続いた。礼諒なりあきは静かにドアを閉めた。茉莉花まりかは閉め終わるまで、立ち止まって礼諒なりあきを待っていた。
 ゆっくりと、執務室へと向かう、茉莉花まりか礼諒なりあき茉莉花まりかは頭の中で話を整理しながら歩く。何から話を切り出そうか、いきなり結論を言うべきか、導入部分を入れたほうがいいのか。頼む形がいいのか、それとも決意表明として、異論を許さないとするのか。
 一歩ごと、執務室が近づくたびに、茉莉花まりかの鼓動は速くなる。手には汗がにじみ、呼吸は乱れる。歩き方が固くなっているのを、自分でも感じていた。
「お嬢様。」
 やや離れたところから、礼諒なりあきの声が響いた。茉莉花まりかは一瞬肩を震わせ、足を止める。
「どうか、落ち着かれてくださいませ。お嬢様お一人で、旦那様にお話をされるとしても、わたしがここでついております。」
「ええ、頼りにしているわ。」
 茉莉花まりかは前を向いたまま、礼諒なりあきに答えた。二人はまた歩き始めた。
 執務室のドアが見えてきた。礼諒なりあき茉莉花まりかに言われた通り、執務室の近くで待つため、いったんここで止まった。茉莉花まりかは深呼吸をすると、ドアを開ける準備をしながら近づいていく――。
 緊張は途切れた。執務室のドアが、わずか1センチほど開いていた。中から、重元しげもと桜子さくらこの会話が聞こえてくる。茉莉花まりかは思わず、声に耳を澄ました。
「相変わらず茉莉花まりかは、拓真たくまくんとの結婚話の返事をくれないな。」
「困ったわね。」
 ため息まじりの、沈んだ声が、執務室の中で響いている。顔は見えないものの、疲れが伝わってくるようだった。
「ひとまずは、上月こうづき家のご当主に、結婚するかどうかの返事をしなければならないというのに。これ以上待ってもらうのも、申し訳ない。」
「実際、茉莉花まりかはどうなのかしら? 拓真たくまくんとは、お話していても、特に問題はないようには見えるのだけれど。断るわけではない、かといって承諾するわけでもない、正式に交際しつつ結論を出す、という雰囲気でもないみたいから、話が進まないわね。」
「ううむ……。」
 言葉を詰まらせるような重元しげもとの様子に、茉莉花まりかは心を針でちくちくと刺されているような気持ちになった。
 そして、次の言葉が、茉莉花まりかの根本をえぐり取った。
茉莉花まりかが結婚話の返事をここまで延ばしていると、一宮いちのみや家の信用問題に関わってきてしまう。決断に時間がかかりすぎるようでは、家業への影響も懸念されるな。」
「そうね……。」
茉莉花まりかの結婚は、茉莉花まりかだけの問題ではない。ここで信用を失えば、一宮いちのみや家が立ち行かなくなるやもしれぬ。それは、一宮いちのみや家の家族だけの問題ではない。親戚、屋敷の使用人、一宮いちのみや家の会社の従業員、多くの人々の生活や人生がかかっている。多大な迷惑をかけるかもしれない。」
 そこまで聞くと茉莉花まりかは、ふらつきながらも、足音を立てないようにそっと、礼諒なりあきもとへと歩いた。
礼諒なりあきさん……。」
 茉莉花まりかは小さな声で言った。礼諒なりあきも、小さな声で返す。
「お、お嬢様、どうなさったのですか? 旦那様にお話は……。」
「もう、いいのよ。」
「え、いい、とはどういう……。」
 先ほどまでとはうって変わって、力をなくしたような茉莉花まりかの言葉に、礼諒なりあきは驚きと疑問の色を見せる。
 茉莉花まりかが何も言わないまま、二人は執務室から離れるように歩いた。とぼとぼとした茉莉花まりかの歩みが、希望が打ち砕かれた心の内をうかがわせる。
 ふと、茉莉花まりかが立ち止まった。後ろについていた礼諒なりあきも、茉莉花まりかに合わせて動きを止める。
 茉莉花まりか礼諒なりあきのほうへ体を向けると、感情の高ぶりを抑えるように、うつむきながら言った。
「わたし、なんて浅はかなのかしら。養子を迎えればいい、だなんて、軽く考えるなんて。」
「ですが、お嬢様がどうしてもと、望まれるのであれば、わたしもご協力を……。」
 なんとか茉莉花まりかに応えようと、言葉を尽くそうとする礼諒なりあき。だが茉莉花まりかは、礼諒なりあきの厚意を無にする前に、受け取りを拒まざるを得なかった。
「いいえ、無理よ。考えてもみて? 家を捨てて使用人とかけおちした娘のいるところになんて、誰も養子に行きたいなんて、思うはずがないわ。」
「あっ……。」
 礼諒なりあきは気づいたように、そのまま口を閉ざした。茉莉花まりかが続ける。
「家のことだもの、わたしのわがままを通すわけにはいかないわよね。わたしは結局、一宮いちのみや家からは逃れられないの?」
「お嬢様……。」
「本当におろかよね。小説の内容に影響されて、実行に移そうとするなんて、空想と現実の区別がついていなくて、恥ずかしいわ。現実は、小説のように上手くいくなんてことは、ないのに。」
「そんなことは……。」
 礼諒なりあきが言いかけると、茉莉花まりかは顔を上げ、礼諒なりあきを見た。目がうるんでいるように見える。
「もしここで家を捨てたりなんてしたら、あっという間にうわさが立って――一宮いちのみや家は信用を失うわ。お父様とお母様、親戚、使用人の皆さんだけではなく、一宮いちのみや家の会社で働いている方や、ご家族……多くの方に迷惑がかかるわ。最悪の場合、路頭に迷わせてしまうことになるかもしれない。でも、そんなこと、できないし、してはいけないもの。」
 茉莉花まりかの目ににじんでいた涙が、粒となって、次から次へと頬を流れていく。少しずつかすれていく声で、抑えきれなくなってきた感情を、あふれさせていった。
「でも、どうしても、上月こうづきさんと結婚するのは嫌なの。叶うなら、礼諒なりあきさんと……。でもそれは、許されないの? いったいわたしはどうすればいいの……?」
「お嬢様……。……っ!?」
 気がつくと茉莉花まりかは、礼諒なりあきに身をゆだねていた。背中に手を回し、両手は礼諒なりあきの服をつかんでいる。止まらない涙を、礼諒なりあきに受け止めてもらうかのように、顔は礼諒なりあきの服にうずめる。
 礼諒なりあきはしばらくのあいだ、動揺したように、固まっていたが、やがてその腕で、茉莉花まりかを抱き寄せた。
 礼諒なりあきの、大きくて優しいぬくもりに包み込まれていることに気づいた茉莉花まりかは、よりいっそう、礼諒なりあきに体を密着させる。
 自分の胸の辺りから、高鳴りを感じ、耳からは、礼諒なりあきの心臓の音を聞いていた。二人の鼓動が一体化しているような感覚に、茉莉花まりかはほんのわずかの幸福感を覚えた。
 ほかの何物にも代えることのできない安心感。礼諒なりあきであればこそ、与えてもらうことができる。拓真たくまと結婚しなければいけないことは、茉莉花まりかがいちばんよくわかっている。それでも抑えきれない、どこかへ逃げてしまいたい衝動。何も言わない礼諒なりあきは、茉莉花まりかのすべてを理解し、衝動を抑え込むかのようで、同時に礼諒なりあき自身からも、同じ思いを感じる気がして、優しさと強さの込められた腕と、礼諒なりあきの体温を、ただじっと味わっていた。
 このままずっとこうしていたい。茉莉花まりかが思わず、手に力を込め、よりしっかりと、礼諒なりあきの服をつかんだ、そのときだった。
「そこで何をしている!」
 声に驚き、二人はあわてて互いを離す。
「お父様……!」
 茉莉花まりかはこちらへと向かってきた、重元しげもとの顔を、おそるおそる見た。
 たった今まで抱きしめ合っていた二人をにらむように、重元しげもとが立っていた。