一生、お仕えします その17

第17話 恐れていた日

 重元しげもとにじっとにらまれて、茉莉花まりかは動けない。茉莉花まりか礼諒なりあき重元しげもと、三人のいる場に、気まずい空気が漂う。茉莉花まりかは必死に、言葉を絞り出そうとするが、何も考えられず、頭の中まで固まってしまっていた。茉莉花まりかの後ろで、礼諒なりあきもなすすべもなく、立ち尽くしている。
 どうしようもない沈黙が、どのくらい続いたのだろうか。重元しげもとが口を開いた。
茉莉花まりか、これはどういうことだ? 今、礼諒なりあきと何をしていた?」
 決して、表面的な激しさはないにもかかわらず、ずっしりと心の奥深くまで、責めてくるような重さがこめられている。重元しげもとは続けた。
「ここしばらく、茉莉花まりかの結婚話について悩んでいてな。本当のところを、茉莉花まりかに聞いて、話してみようと思っていたのだが……。」
 そこまで言うと、重元しげもとは一呼吸置き、さらにけわしい顔を作った。
「もしかして、礼諒なりあきと交際しているのではあるまいな? だから拓真たくまくんとの結婚を渋っているのか?」
「ち、違うわ、お父様!」
 茉莉花まりかはとっさに否定する。先ほどまで固まっていた茉莉花まりかは、自分の行動に驚きを覚えた。
 だが重元しげもとは、追い打ちをかけるように、たたみかけてくる。
「違う、とな? では先ほどの行為はなんだ? どう見ても、抱き合っているようにしか見えなかった。主人と使用人という立場にある二人が、そういうことをするのだと言えるのか?」
「旦那様、それは……。」
 礼諒なりあきが思わず声を上げる。茉莉花まりかの前へ出ようと、一歩踏み出そうとする。
礼諒なりあき、そなたには聞いておらぬ。茉莉花まりか、きちんと答えなさい。」
 重元しげもと礼諒なりあきを言葉で制止すると、礼諒なりあきは動きを止めた。茉莉花まりか重元しげもとの言葉の厳しさに、下を向いていたが、答えをうながされ、ゆっくりと上を向く。
「違うの、お父様。さっきは、わたしが体調が悪くなって、急にふらついたから、たまたま通りかかった礼諒なりあきさんが、体を支えてくれただけよ。」
「本当か?」
「ええ、本当よ。礼諒なりあきさんと交際だなんて、そんなこと、するわけないわ。お父様の言う通り、主人と使用人なんだもの。それくらいのことは、わきまえているわ。」
 茉莉花まりかは精一杯、まくし立てた。鼓動は速くなり、手には汗がにじむ。息の荒さと、声の震えに気づかれやしないか、気が気ではなかった。
 重元しげもとはしばらく黙っていた。その静けさに、目の前でどんなことが起こってしまうのかと、考えただけで足がすくんでしまう。それでも表面的には、正々堂々としているふりをするしかなかった。
 やがて、重元しげもとが口を開く。
「……まあ、拓真たくまくんとの結婚については、また後日、話をしよう。茉莉花まりか礼諒なりあき、くれぐれも、誤解されるようなことはせぬようにな。」
 そう言うと、重元しげもとは向きを変え、執務室へと歩いて行った。
 茉莉花まりかは、重元しげもとの後ろ姿を見つめたまま、その場から動けずにいた。かといって、ずっとここにいるわけにもいかない――。そう思ったとき、ふと礼諒なりあきの声が、静かに響いた。
「お嬢様、ひとまずお部屋に帰りましょう。」
 茉莉花まりかはやっとの思いで、
「ええ。」
とだけ答えると、ゆっくりと部屋へ向かって歩き始めた。礼諒なりあき茉莉花まりかの後ろをついていった。
 部屋に戻り、いつもお茶を飲む小さなテーブルの前に座ると、茉莉花まりかは大きなため息をついた。
「お疲れ様でした、お嬢様。」
 礼諒なりあきはほかに言葉が見つからず、そう言った後には、きまりが悪そうな顔をしていた。
 茉莉花まりかは下を向き、手をひざに置くと、スカートの布地をつかんだ。
「なんてことかしら。あんな大それたことを言うだけ言っておきながら、結局何もできないだなんて……。」
 顔を上げた茉莉花まりかは、礼諒なりあきの目を見つめる。
「せっかく礼諒なりあきさんも協力してくださったというのに、なんとおわびをすればいいのか……。本当に、ごめんなさい。」
 茉莉花まりかが頭を下げる。礼諒なりあきは慌てたように、茉莉花まりかに返した。
「お嬢様、わたしに謝られる必要などございません。たとえどんな結果になったとしても、わたしはわたしなりに、お嬢様のために、全力を尽くせたことを、誇りに思っております。」
「でも、わたしのわがままに巻き込んでしまっただけなのに……。本当に、情けない主人だわ。」
「どんな物事だって、うまくいかない可能性はありますよ。今回はそうだったというだけです。次の機会を待ちながら、別の方法を考えましょう。」
「別の方法?」
「はい、お嬢様とわたしが、一緒になれる方法です。お嬢様、お一人で背負われないで、どうかわたしにも、ご協力させていただけませんか?」
 礼諒なりあきは胸に手を当て、しっかりと茉莉花まりかを見つめる。茉莉花まりかはなぜだか気恥ずかしくなり、話題を変えた。
「あ、ありがとう、礼諒なりあきさん。それよりも、今回はお父様をなんとかごまかせたかもしれないけれど、今後の行動には気をつけないといけないわね。お父様に怪しまれないように。交際しているだなんて、そんなふうに思われるそぶりは、見せてはいけないわ。」
 茉莉花まりかは不安げにため息をつく。礼諒なりあきも、茉莉花まりかに同調するように、沈んだ顔になった。
「はい、お嬢様、心しておきます。日々のどんな言動にも抜かりのないよう、細心の注意を払います。」
「お願いするわね、礼諒なりあきさん。わたしも気をつけるわ。」
 二人はいったん静かになった。茉莉花まりかは何かを考えるような姿勢でいたが、やがて、礼諒なりあきの顔をしっかりと見て、はっきりとした声で言った。
「でも、いざとなったら、わたしが礼諒なりあきさんを守るわ。わたしは主人だもの、使用人を守る責任があるわ。だから、礼諒なりあきさんは安心して……。」
「お嬢様。」
 茉莉花まりかの言葉をさえぎるように、礼諒なりあきが口を開く。
「そんなに、お気を張りつめるなど、なさらないでください。わたしこそ、お嬢様をお守りいたします。」
「でも……。」
「お嬢様は、わたしの主人、一宮いちのみや家の次代のご当主である前に、一人の人間であり、女性でいらっしゃるのです。どうか、わたしと二人のときは、もっとご自分のお気持ちをお出しになってくださいませんか? わがままになられて、よろしいのですよ。」
 礼諒なりあきはそっと、茉莉花まりかに微笑みかける。茉莉花まりかの目から、ひとしずくがこぼれ落ちたかと思うと、次のしずくを呼び、やがて滝になってあふれ出した。
 礼諒なりあきはひざまずくと、持ってきた清潔なハンカチで、茉莉花まりかの涙をぬぐう。何も言わず、ただ茉莉花まりかの涙を受け止めていた。
 しばらくすると、茉莉花まりかは落ち着きを取り戻したのか、礼諒なりあきにお茶を淹れてくれるよう頼んだ。礼諒なりあきはすぐにお茶を淹れ、茉莉花まりかに差し出した。
 茉莉花まりかがゆっくりとお茶を飲むのを見守りながら、礼諒なりあきは優しく、かつ力を込めて言った。
「お嬢様、どんなことでも、どうかわたしにご相談ください。必ずやお力になって差し上げます。」
「ありがとう。頼りにしているわ。やっぱりわたしには、礼諒なりあきさんが必要ね……。」
 茉莉花まりかの顔は、曇り空からのぞく晴れ間のようになり、ほのかな笑みを、礼諒なりあきに向けた。礼諒なりあきの顔が少しだけ赤くなった。
 茉莉花まりかがお茶を飲み終わると、礼諒なりあきはお茶の道具を持って、部屋を後にした。
 その後数日間、茉莉花まりかはいつ重元しげもとに何か言われるか、または礼諒なりあきが何か言われやしないかと、神経をとがらせながら生活していた。だが重元しげもとは、その日以来、礼諒なりあきとのことも、結婚話についても、何も言ってこなかった。仕事が忙しいのだろうとは思ったが、そうはいっても、重要なことなら、重元しげもとは必ず時間を作って話をする。それがないということは、今回のことは不問に付す、ということなのだろう。茉莉花まりかはそう解釈し、次第に緊張感をゆるめていった。
 茉莉花まりか礼諒なりあき、二人の日常は、以前と変わらない形で進行しているようだった――もちろん、言動には細心の注意を払いながら――。そのうち茉莉花まりかは、重元しげもとの行動に悩みを巡らせることもなくなり、大学の講義も、安心して受けるようになった。

「お呼びですか、旦那様。」
 執務室に、吉川よしかわが入ってきた。外の光をブラインドで遮断し、目に優しい照明で、仕事をしやすく調節されている部屋も、今は突き刺さるものがあるように感じられる。
 執務室では、桜子さくらこ重元しげもとと一緒に仕事をすることがよくある。だが今は、重元しげもとが一人でいた。先ほどまで、今日の夕食の献立について、料理人と相談していた吉川よしかわは、重元しげもとに呼び出され、慌ててやってきた。
 執務室の机の前に座り、何やら深刻そうな表情を浮かべる重元しげもと。書類が机の一箇所にまとめて置かれ、いったん仕事が中断されたことをうかがわせる。吉川よしかわは、いつも重元しげもとの用件を聞くときのように、机の前に立った。
 重元しげもとは、まっすぐに吉川よしかわを見て、呼びかける。
敬也あつや。」
 唐突にファーストネームで呼ばれ、吉川よしかわは身構える。若かりし頃、まだ執事見習いだった吉川よしかわ重元しげもとに、「敬也あつや」と呼ばれていた。お互い、少しずつ、一宮いちのみや家の跡継ぎとして、見習いの執事から副執事として、成長していく中で、いつしか名字で呼ばれるようになっていく。現在の重元しげもとが、吉川よしかわを名前で呼ぶとするなら、当主としてよりは、一人の人間として、吉川よしかわを頼るようなときだった。
 吉川よしかわの動揺を素早く察したのか、重元しげもとは軽く咳払いをすると、ふたたび吉川よしかわに問いかけた。
吉川よしかわ、そなたはわたしの忠実な執事であると、信じてよいな?」
「え? どういうことでございますか?」
 あいまいな重元しげもとの言葉に、頭が混乱する吉川よしかわ重元しげもと吉川よしかわの納得を待たずに、本題を切り出した。
「実は、そなたに聞きたいことがある。礼諒なりあきのこと――正確には、礼諒なりあき茉莉花まりかの関係についてのことだ。」
 吉川よしかわは息を飲んだ。いつかはこのときがくるとは思っていた。だが、意外と早いような気もするし、やはり遅いような気もする。親として、娘の変化に気づかないわけがない、と……。
「確証はないが、茉莉花まりか礼諒なりあきは交際しているのではないか、またはそこまでいかなくても、思いを通わせ合うようなことをしているのではないか、と思うのだ。実際、何日か前に、あの二人が廊下で抱き合っているのを見た。」
「それは、本当なのですか?」
 吉川よしかわの驚きように、重元しげもとは何かを感じ取ったようだった。
吉川よしかわ、もしかして、あの二人について、知っていることはないか? 礼諒なりあきはそなたの部下であるし、わたしより接している時間も多いので、何か気づくこともあろう。今ここで、話してもらえないだろうか。わたしはそなたが、忠実な執事であると信じている。わたしが15歳のときから、一心につとめてくれているからな。」
「旦那様……。」
 吉川よしかわは一瞬、迷いが生じ、考えを巡らせた。確かに自分はずっと、重元しげもとに仕え、重元しげもとに尽くしてきた。重元しげもとの命に従うのは当然だった。また礼諒なりあきも、部下であるがゆえ、部下の過ち・・をただすのも、上司としてすべきことだと言える。だが吉川よしかわにとって、礼諒なりあきは息子のように見ている面もあり、吉川よしかわの厳しさをもってしても、礼諒なりあきへの親心のようなものが捨てきれない側面もあった。そして何より、自分もかつて、礼諒なりあき同じ立場・・・・であったことがある吉川よしかわにとって、礼諒なりあきの恋心について話すことは、はばかられるものがあった――。
 だが、今そんなことを言っても、どうしようもなかった。一番に優先すべきことは、主人の命に従うこと、個々の事情はさておいて、ひとまず知っている事実を話すことだった。迷いが頭に浮かんだ2秒後には、結論を出していた。
「はい、旦那様。お話しいたします……。」
 吉川よしかわは、礼諒なりあきのことについて、静かに話し始めた。
 吉川よしかわが話し終わると、重元しげもとはしばらく考え込んでいたが、やがてけわしい顔で、吉川よしかわに命令を下した。
吉川よしかわ、一人暮らし用の賃貸マンションを手配してくれ。」
「えっ?」
礼諒なりあきの大学に通いやすい、交通の便が良いところだ。新しめで、きれいで設備も良く、安全管理もしっかりしているマンションを頼む。」
 予想していなかった言葉に、吉川よしかわは頭がついていかないような感覚になった。耳から少し遅れてようやく意味を理解すると、思わず反論しそうになっていた。
「ですが旦那様、いきなりそれは、あんまりなのでは……。」
吉川よしかわ。」
 穏やかそうな顔つきに似つかわしくない、鋭い目できっ、とにらまれ、吉川よしかわはひるむ。
「言うまでもない。礼諒なりあきは契約違反を犯したのだ。吉川よしかわも、常日頃から礼諒なりあきに、口頭で注意していたのだろう? 何の問題もない。決断は、すばやくなされねばならぬからな。」
「……かしこまりました。すぐにマンションを手配いたします。」
 吉川よしかわは軽く頭を下げた。
「よろしく頼むぞ。それから、もうすぐ茉莉花まりかの大学で、宿泊学習があるようだ。わたしはそのあいだくらいに、桜子さくらこと一緒に海外出張に出かけるので、その点もよろしく頼む。」
「承知いたしました、旦那様。」
 吉川よしかわはもう一度、今度は深々と頭を下げると、執務室を出た。不動産関係の資料が置いてある部屋へと、足早に向かった。

 数日後、夜に、茉莉花まりかは翌日からの宿泊学習の準備をしていた。大学の、茉莉花まりかが所属する学部・学科の履修科目に含まれており、2泊3日でキャンプをする。集団行動やチームワークについて学んだり、学友との交流を深めたり、自然と触れ合ったり、さまざまな目的のもと、おこなわれることになっている。
 宿泊学習には、志歩しほも付き添いで、一緒に行くことになった。本来なら付き添いは不可だが、茉莉花まりかの事情を考慮し、特別に許可をもらったのだった。
 茉莉花まりか志歩しほとともに、翌日からの服装や、荷物について、講義で配られた資料を見ながら、ああだこうだと話し合いつつ、準備を進めていた。
「やはり、キャンプということで、動きやすい服装がよろしいですからね。基本はパンツスタイルである必要があるかと存じます。」
「そうですね……。でも、パンツはあまり持っていないわ。かといってジャージがいいのかどうか……。あ、志歩しほさん、これ、どうですか?」
 ベッドの上に、クローゼットから出した服が広げられ、二人はキャンプにふさわしそうな服装を検討していた。
「そうですね、このジャージなら、見た目もおしゃれですし、着脱もしやすそうですものね。よろしいのではないでしょうか?」
志歩しほさんがそう言うなら……一つ目はこれにします。」
 念のため、茉莉花まりかは今決めたジャージを着てみる。
「大学からは、特に服装指定はされていないということですし、キャンプなら、かえってジャージのほうがよろしいかもしれませんね。まあ、お似合いですわ。」
 志歩しほ茉莉花まりかの姿を見て、にっこりと、うれしそうに笑みを浮かべた。
 服を選び終わり、その他の荷物を用意し、まとめていると、部屋のドアを強めにたたく音がし、礼諒なりあきの声が響いた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました。」
「あ、礼諒なりあきさん。どうぞ、入って。」
 礼諒なりあきは静かにドアを開け、部屋に入ってまた閉めると、ドアの近くに立った。
「お嬢様、志歩しほさん、ご準備中に、たいへん失礼いたします。タイミングが悪くて、申し訳ございません。」
「気にしなくていいわよ。いつも、この時間だものね。ちょっとやりにくいかもしれないけれど、いつも通り、お茶を淹れてくださるかしら。」
「かしこまりました、お嬢様。」
 志歩しほが少し、テーブルまわりを片付け、礼諒なりあきはそこを進んでいった。
 茉莉花まりか志歩しほはいったん、宿泊学習の準備を中断した。茉莉花まりかはテーブルの前に座り、志歩しほはテーブルの近くで茉莉花まりか礼諒なりあきを見守っていた。礼諒なりあきはいつものように、慣れた手つきを見せた。
 茉莉花まりかは、礼諒なりあきが淹れたお茶をじっと見つめてから、すみずみまで味わうように、ゆっくりと飲み干す。飲み終わると、ほっとため息をついた。
礼諒なりあきさんの淹れたお茶って、本当においしいわね。宿泊学習でしばらく飲めないなんて、寂しいわ。」
 茉莉花まりかが残念そうに、目を伏せる。礼諒なりあきは、喜びを隠しきれないような、抑えてもにじみ出るような、そんな顔になり、冷静さを装いつつ言う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。きっとキャンプは楽しいでしょうし、2泊3日なんてあっという間です。すぐにまた、わたしがお茶をお出しすることになりますよ。」
「そうかしら……。」
「ではお嬢様、お嬢様がお帰りの日の夜には、とびきりおいしいお茶をお淹れできるように努めさせていただきます。」
 礼諒なりあきは、茉莉花まりかを元気づけようと、精一杯の誠意を込める。茉莉花まりかの顔に、晴れやかな明るさが戻った。
「まあ、素敵ね。楽しみにしているわ。」
「おまかせください、お嬢様。」
 礼諒なりあきは右手を胸の前に置き、自信のあるような表情を作った。
「ところでお嬢様、志歩しほさん、わたしも準備のお手伝いをしたほうがよろしいのでしょうか?」
 礼諒なりあきがふと気づいたように、話題を変える。
「いえ、いいわ。志歩しほさんと二人で充分なの。」
「そうでございますか……。」
 即答した茉莉花まりかに、残念そうにする礼諒なりあき。すると茉莉花まりかがうつむいたかと思うと、理由を述べる。
「だって、荷物には着替えだとか……下着なんかもあるもの。礼諒なりあきさんに……男の人に見られるのは恥ずかしいわ……。」
「あ! あの、そうでいらっしゃいますよね! 申し訳ございません! 女性に対する配慮が、欠けておりました!」
 恥ずかしそうに、顔をそむける茉莉花まりかに、礼諒なりあきはひたすら頭を下げる。その様子をしばらく見ていた志歩しほが、気まずくなりそうな前のタイミングで、二人に助言した。
「ま、まあ、礼諒なりあきさん、そういうことだってありますよ。とにかく、お嬢様のご準備は、わたしにおまかせください。礼諒なりあきさんもご自分の大学があるわけですし、無理のない範囲でお仕事をされるのが、よろしいと思いますわ。」
「あ、ありがとうございます、志歩しほさん。」
 礼諒なりあきはほっと胸をなでおろすと、少しずつ平静を取り戻しにいった。茉莉花まりかは、
「困らせてしまってごめんなさい、礼諒なりあきさん。」
と言うと、また礼諒なりあきをいつものように受け入れる態度を示した。
 二人のやり取りを見ながら、志歩しほ茉莉花まりかの気持ちについて、思いを巡らせていた。両思いになったとはいえ、まだ、着替えの服や下着を見られるのも恥ずかしいと思ってしまうほど、初々しい二人である、と。そばで見守っていられることに、ほのかな幸福を覚える。いつまでこの時が続くのだろう。願わくは、ずっと……。
 翌日、茉莉花まりか志歩しほは朝早くに出かけた。いったん登校し、大学からバスで、キャンプ場へ向かう。大学までは、一宮いちのみや家の運転手が、車で送っていくことになった。
 礼諒なりあきは時間に余裕があったため、茉莉花まりか志歩しほを見送った。車の中で茉莉花まりかは、礼諒なりあきが見えなくなると、寂しそうに、ため息をついた。志歩しほが、礼諒なりあきにみやげ話を持って帰ろう、と、茉莉花まりかを励ました。
 礼諒なりあきは、朝の仕事を終えると、大学に行く準備をし、やがて出かけた。

 いつもより早い時間に、礼諒なりあきは帰ってきた。たまたま、今日最後の時間の講義が休講になり、特に用事もないので、そのまま帰ったのだった。
 30分ほど休憩して本を読み、一宮いちのみや家での仕事にとりかかろうと、吉川よしかわのところへ行く。仕事の指示をあおぐためだった。
 だが吉川よしかわは、やってきた礼諒なりあきを見ると、仕事の指示はせずに、厳しい顔をした。
礼諒なりあき、旦那様がお呼びだ。今から一緒に行こう。」
「え……? は、はい、かしこまりました。」
 ふだん、重元しげもとから直接呼ばれることはほとんどない礼諒なりあきは、不思議に思ったが、吉川よしかわの言う通り、重元しげもとのところへ行くことにした。同時に、吉川よしかわの様子が、どこかいつもと違う気もしていた。完璧な執事であるといえる吉川よしかわといえども、3年以上もそのもとにいると、わかるようになってくることもあるものだった。
 二人は無言で、重元しげもとの待つ執務室へと向かっていく。どんよりとした空気に、礼諒なりあきは悪い予感を覚え、一歩進むごとに、足取りは重くなり、手には汗がにじんでいく。
 やがて、吉川よしかわが執務室のドアを開けると、前方に重元しげもとの姿が飛び込んできた。
礼諒なりあき、待っていたぞ。まずは、ここに座りなさい。」
 重元しげもとがゆっくりと口を開いた。いつも座っている机の前に、礼諒なりあきが座るためのいすが置かれている。礼諒なりあきは言われた通り、腰かけた。やや後ろ斜めに、吉川よしかわが控えている。
 何のご用でしょうか。頭の中では言葉がまとまっても、うまく口に出すことができない。重元しげもとの気迫のようなものに、圧倒されていた。そんな礼諒なりあきの様子を一通りながめた後、重元しげもとが話を切り出した。
礼諒なりあき、そなたに聞きたいことがある。そなたと……茉莉花まりかの関係のことだ。」
 礼諒なりあきはその言葉に、瞬時に凍りついた。にらむようにこちらを見ている重元しげもと。まるで、すべてを知っているような――。
「まず、確認しておきたいのだが、そなたとの契約のときに、わたしか吉川よしかわから、茉莉花まりかに個人的な贈り物はしてはならないことや、茉莉花まりかと個人的な関係になってはいけないことは、説明していたな?」
「はい……。」
 やっとの思いで、声を絞り出す。重元しげもとは容赦のない様子で続けた。
吉川よしかわから聞いたのだが、そなた、以前、茉莉花まりかに化粧品を贈ったそうではないか。それは、本当なのか?」
 礼諒なりあきは思わず、体をぴくりとさせた。昨年の茉莉花まりかの誕生日、茉莉花まりかのために、ひそかに贈った化粧品。個人的な好意から贈ったものであるがゆえに、絶対に知られてはならなかったのに、吉川よしかわには気づかれてしまっていた。重元しげもとまで伝わるのも、時間の問題だったのだ――。
「本当、です……。」
 礼諒なりあきはおそるおそる、答えた。重元しげもとの前では、取り繕うだとか、うまくごまかして切り抜けるだとか、そのような方法はまったく無力化されているとしか言えない。否定するすきを与えられず、ただ、自分のしたことを述べることしかできなかった。
「そうか。わかった。礼諒なりあき、そなたには、もう茉莉花まりかに仕えてもらうことはできない。」
「えっ!? そんな!」
 瞬時に結論を出した重元しげもとに、つい反論しようとしてしまう。だが重元しげもと礼諒なりあきに、反論の余地も与えなかった。
「当然であろう。吉川よしかわに言われていたと思うが、そなたと茉莉花まりかは、使用人と主人という関係だ。個人的な感情、個人的な関係など、許されるものではない。」
 礼諒なりあきは何も答えられず、下を向き、ただそれぞれの手で、スラックスの布地をつかんでいる。
「使用人として、主人に何か贈るということは、確かにとがめられることではない。だが、それはあくまで、使用人としての立場をわきまえた上での話だ。化粧品というものを贈るというのは、しかも内密に贈るというのは、個人的な感情からの行為だと、判断せざるを得ない。」
 礼諒なりあきの体全体から、心の奥深くまで、言葉がぐさりと刺さっていく。
「そこへ、このあいだのできごとだ。あのとき茉莉花まりかは、礼諒なりあきはふらついた自分を支えてくれただけだと言っていたが、わたしの目にはそうは見えなかった。そなたと茉莉花まりかは、それなりに深い関係になっている、と推測される。それは契約違反だ、礼諒なりあき。」
 最後の言葉が、とどめとなって礼諒なりあきを襲う。礼諒なりあきは小刻みに震え、思うように体を動かせない。重元しげもと礼諒なりあきの様子にはかまわず、命を下した。
「ついては、そなたのためにマンションの部屋を用意したので、そこに住むように。引っ越しの業者の手配もしたので、明日中に、この屋敷を出なさい。」
「旦那様、そんな、いきなり、困ります!」
 礼諒なりあきは思わず顔を上げ、声を発していた。体中に、汗が流れているのがわかる。なんとかして、一宮いちのみや家の屋敷にい続けたい。だが訴えようにも、うまく言葉にならない……。
 礼諒なりあきがそう考え終わるか終わらないかのうちに、重元しげもと礼諒なりあきに返す。
礼諒なりあき、大学のことなら心配しなくてよい。学費はもちろん、生活費も卒業するまで出す。ほしいものを買ったり、貯金の必要もあったりすると思うので、大学と両立できるアルバイトも紹介しよう。マンションは、通学にも便利で、きれいで設備もよく、安全管理もしっかりした、いいところだ。そなたは家事も一通りできるし、一人暮らしに慣れさえすれば、なんの問題もないだろう。」
「ですが旦那様、明日中だなんて。せめてお嬢様にごあいさつを……。」
礼諒なりあき、契約違反をしたそなたに、そんな権利があると思うか? そなたの仕事上の主人は茉莉花まりかであるが、今そなたを雇っているのは、わたしだ。」
 礼諒なりあきの希望など、いっさい聞き入れる気のない重元しげもとに、自身の力のなさを覚えるしかない。だがそれでも、わずかな望みにすがろうと、思い浮かんだ疑問を口にする。
「そうはいっても、わたしが急にいなくなったら、お嬢様のお世話はどうされるのですか? 代わりの方はいらっしゃるのですか? お茶をお出しするのだって……。」
 だが重元しげもとは、すぐに礼諒なりあきの希望を砕きにきた。
「そなたがその心配をする必要はない。すべてわたしと吉川よしかわが責任を持っておこなう。だから礼諒なりあき、命令に従いなさい。もう二度と、一宮いちのみや家の屋敷に近づいてはならぬ。」
「承知、いたしました……。」
 重元しげもとにすごまれ、礼諒なりあきは反論する材料がなくなり、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
 その後、礼諒なりあきの引っ越しが、内密におこなわれた。もともと礼諒なりあきの個室は6畳と、そこまで広いわけでもなく、また、ふだんから荷物が整理整頓されていたため、それなりの人手があったこともあり、比較的早く終わった。
 吉川よしかわが運転する車で、これから住むマンションへと向かう。礼諒なりあきは名残惜しそうに、一宮いちのみや家の屋敷を、そして茉莉花まりかの部屋のあたりを、何度も振り返った。そのうち吉川よしかわにせかされ、重い足取りで車に乗り込んだ。
 礼諒なりあきを乗せた車が、どこか、離れた場所へと、出発した。

 2日後、茉莉花まりか志歩しほが、午後の暗くなっていく時間帯、夕食時よりも少し後くらいの時刻に、屋敷に帰ってきた。夕食は外で済ませてきていた。
 家事長かじちょうが二人を出迎えた。今は重元しげもと桜子さくらこが海外出張中だと、家事長は茉莉花まりかに確認した。茉莉花まりかはつい、礼諒なりあきの姿を探す。だがなぜだか、礼諒なりあきのことについて、口に出すことができなかった。
 茉莉花まりか志歩しほとともに、自分の部屋へ戻る。途中、居間の前を通ると、吉川よしかわと、何やら見慣れない者が話し合っている。立ち止まってのぞき見ると、後ろ姿で顔が見えないが、若そうな男性のようだった。
(こんな時間に、吉川よしかわさんにお客様かしら?)
 疑問に思いつつも、会話を盗み聞きするわけにもいかず、茉莉花まりかはふたたび部屋へと歩いていく。吉川よしかわの客人というと、新しい使用人を雇うのだろうか。だが最近は、そのような様子はなかった気がするが――。不思議ではあったが、後で聞くことにし、今は今のことに集中することにした。
 部屋へ戻るとさっそく、志歩しほと一緒に、宿泊学習の荷物の片づけをおこなう。服や下着、タオルなどを、洗濯のために仕分けたり、洗わないといけないものを点検したり、部屋から持っていったものを元の場所に置いたり。こまごまとした作業は、意外と時間がかかってしまう。
 一段落し、いったん軽く休憩しよう、と志歩しほが言ったとき、部屋のドアを軽くたたく音が聞こえた。一瞬、どきりとした茉莉花まりかだったが、すぐに落胆に変わる。いや、それ以上に、思いもよらないことだった――。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました。」
 入ってきたのは、家事人かじにんの若い女性だった。茉莉花まりかはきょとんとした様子で、家事人を見ている。
「えっと、お茶の道具を置くのは、ここでよろしいのですよね?」
 家事人は、茉莉花まりかがいつもお茶を飲むテーブルまで来ると、不慣れな手つきでお茶の道具を置く。茉莉花まりかは座らずに、家事人の女性に聞いた。
「お茶を持ってきてくださって、ありがとうございます。あの、今日は、礼諒なりあきさんは……?」
 家事人は、茶筒にかけた手をいったん離すと、手を前に組み、申し訳なさそうに答える。
笹原ささはらさんは、急な休暇と、宿泊をともなう外出だと、お聞きしました。」
「そうですか……。礼諒なりあきさんは、いつごろ帰るのですか?」
「申し訳ございません、お嬢様、わたくしもあまり、詳しいことはお聞きしていなくて……。」
「わかりました……。」
 それから茉莉花まりかは無言になり、テーブルの前に座った。家事人の女性は、緊張する様子を見せながら、手早くお茶を淹れ、茉莉花まりかに出した。茉莉花まりかはさっとお茶を飲み干すと、
「あまり時間がかかると申し訳ないので、すぐに飲みました。」
と、湯飲みを返した。家事人は震える手で、湯飲みを受け取っている。志歩しほがそれを見て、家事人に、
「お嬢様は、仕事が早く終わるように、配慮してくださったのです。だから、緊張されることはありませんよ。」
と、できるだけ笑顔で、やわらかく言った。家事人はお茶の道具を素早くまとめると、足早に部屋を出た。
 二人になると茉莉花まりかは、はあっと大きなため息をついた。
礼諒なりあきさんのお茶が飲みたくて、一分一秒でも早くお屋敷に帰ろうとしていたのに、それが叶わないなんて。礼諒なりあきさんのお茶に勝るものはないのに……。」
 どんよりとした空気が、茉莉花まりかのまわりを包み込む。志歩しほは、茉莉花まりかを少しでも元気づけようと、努めて明るくふるまう。
「大丈夫ですよ、お嬢様。きっとすぐに、礼諒なりあきさんは帰ってきますわ。そうすれば、礼諒なりあきさんの淹れたお茶を飲み放題ですよ。」
 志歩しほの心遣いを感じ取り、茉莉花まりかはわずかに微笑む。
「ありがとうございます、志歩しほさん。」
「それにしても、礼諒なりあきさん、急な休暇と外出だなんて、どうなさったのでしょうね? 帰ってきたら、いろいろとお話を聞かなければなりませんわね。」
「そうですね。そろそろ、片づけの続きをしましょうか、志歩しほさん。」
「かしこまりました、お嬢様。」
 二人は片づけを再開した。口数は少なく、作業は短時間で完了した。
 その夜、茉莉花まりかはなかなか寝つけなかった。礼諒なりあきはどこに出かけたのだろう。胸がざわざわとした。ただの休暇や外出ではない気がする。その証拠に、どうしてか、礼諒なりあきのことをたずねることができなかった。たずねてはいけない気がした。
 礼諒なりあきは今、元気なのだろうか。もしかして、どこかでひとりぼっちではないのだろうか。食事はきちんととっているだろうか。安心して眠りにつけているだろうか。いつ、会えるのだろうか――。不安ばかり、悪い考えばかりが、波のように、次から次へと押し寄せてくる。自分のことよりも、礼諒なりあきが心配でたまらない。愛おしい相手に、少し会えないだけで、こんなに胸が苦しくなるなんて――。
 だがそうしているうちに、茉莉花まりかはいつしか眠りに落ちていた。不安よりも疲労が勝ったのだろうか。宿泊学習の疲れもある。何より、現実的な解決策を見つけ出すためには、睡眠は必要不可欠なものだった。
 夢の中で、茉莉花まりか礼諒なりあきと一緒にいた。二人だけで、好きな場所で「デート」している、幸せな夢。だが気づくと、礼諒なりあきがいない。必死に探す茉莉花まりか――。
 はっと目が覚めたと思うと、涙が頬を伝わっていた。枕元の時計を確認すると、まだ夜中のようだった。朝までの時間が充分に与えられていることに、ひとまず安堵し、茉莉花まりかはまた目を閉じた。

 朝になり、鳥のさえずりが聞こえ、カーテンのすき間から、光が差し込んでくる。それとともに、何やら低い声が耳に入ってくる。夢うつつで、声の内容を聞き取ろうとする茉莉花まりか
 少しずつ、茉莉花まりかは声を、言葉を認識し始めていた。いつもの礼諒なりあきの声ではない、耳慣れない声。一瞬で目が覚める礼諒なりあきの声とは違う、誰かの声……。
「お嬢様、起きる時間でございます。お部屋にお入りしてもよろしいでしょうか。」
 茉莉花まりかはようやく、ほとんど目覚め、声の主が誰なのか考えた。吉川よしかわでもなければ、家事人の男性でも、ほかの男性の使用人でもない。声の質から、女性の使用人でもない。いったい誰なのか。茉莉花まりかが混乱していると、声はさらに続けた。
「お嬢様、失礼いたします。お部屋に入らせていただきます。」
 茉莉花まりかは慌てて起き上がった。部屋のドアが開き、その「誰か」が入ってくる。茉莉花まりかの目に飛び込んできたのは――。
「おはようございます、お嬢様。お水をお持ちしました。」
 背丈は重元しげもと吉川よしかわと同じくらいだろうか。すらりとし、顔立ちの整った、20代半ばと思しき青年。茉莉花まりかにはまるで見覚えがない。けれども、礼諒なりあきと同じ、執事見習いの制服を着ている。
「どちら様、ですか……?」
 茉莉花まりかは何がなんだかわからず、目の前の青年を、ただじっと見つめていた。