一生、お仕えします その19

第19話 対峙

 いよいよ今日は、重元しげもと桜子さくらこが、出張から帰ってくる。朝一番に、島村しまむらに起こされ、グラスに入れてもらった水を飲みながら、今日の予定について、用件を聞いた。
「お嬢様、おはようございます。旦那様と奥様は、だいたい夕方ごろにお帰りになる、とのことです。」
「わかりました。ありがとうございます。」
 茉莉花まりか島村しまむらに、てきぱきと答えると、からになったグラスを、そっと島村しまむらに渡した。島村しまむらはていねいに頭を下げ、グラスを受け取ると、
「それでは失礼いたします。朝食のご準備も整っておりますので、いつも通り、お支度なさいませ。」
と言い、静かに部屋を出た。
 その後は、志歩しほの手伝いで身支度を済ませ、島村しまむらの給仕で朝食をとり、一宮いちのみや家の運転手の運転する車で、大学へと向かう。以前とは少しだけ変わってしまったものの、やがて平穏さを取り戻した日常。平穏であるとはいえ、喜びもなく、喪失感とむなしさがある。
 だがとうとう、決着をつけることになる。父に話をし、礼諒なりあきの居場所をつきとめる。島村しまむらは、残念ながら、ほかの屋敷に行ってもらうしかない。心苦しさがありながらも、茉莉花まりかはほかに取るべき手段が思い浮かばなかった。何があったとしても、これだけはゆずれない。大切に思う、礼諒なりあきのために――。
 今日、ことが動くかもしれないことを考えると、茉莉花まりかはそわそわするような、居心地の悪さを覚えた。大学に向かう途中、運転手に話しかけられても、上の空だった。礼諒なりあきに会えるかもしれないのに、なぜこんな気持ちになってしまうのだろう……自然にわき起こってしまう気持ちに、罪悪感を抱きつつも、今日の講義へと意識を集中させるために、茉莉花まりかの頭の中は、努力を強いられていた。
 今日は語学の講義があった。ふだんなら、当てられればすぐに、的確に返事をし、解答したり、音読したりする。だが今日は、意識がほかのところへと行ってしまい、先生に何度か呼ばれたり、友人に心配そうに言われたりしていた。
 昼休み、茉莉花まりかが食堂で友人一人と食事をしているときの話題は、語学の時間の茉莉花まりかの様子についてだった。それぞれに好きなランチセットを食べながら、友人が深刻そうな顔をする。
茉莉花まりかちゃん、体調は大丈夫? さっきの時間、元気なさそうだったし、先生も心配していたね。」
「ええ、体調は何も問題ないわ。心配をかけて、ごめんなさい。ただ、考え事をしていただけなの。」
 茉莉花まりかは、何も問題ないというそぶりで、笑顔を作る。友人は、茉莉花まりかの心の奥を感じ取ったのか、曇らせた顔を崩さずに、言った。
「そうなの? 茉莉花まりかちゃんのおうちって、しがらみがあったりして、大変そうだもんね。わたしじゃ何も役に立てないかもしれないけど、日常のちょっとしたことくらいなら相談に乗るから、一人で抱え込んだりしないでね。」
「ありがとう。頼りにしているわ。」
 まだ知り合ってから、そう長くはないためなのか、礼諒なりあきに対する信頼感ほどのものは持てないことに、申し訳なさを感じつつも、自分に歩み寄ってくれるその態度に、ほのかなあたたかさもおぼえていた。
 午後の講義は友人とは別で、茉莉花まりかのほうが終わるのも早いため、今日はここで友人と別れ、次の講義へと向かった。
 あっという間に今日の講義が終わり、一宮いちのみや家の運転手の運転する車で、屋敷に帰る。まだ重元しげもと桜子さくらこは帰っていないようだった。ひとまず茉莉花まりかは、今日の語学の復習をすることにした。
 机に向かい、音読をしていると、ドアを軽くたたく音が響いた。
「お嬢様、志歩しほでございます。」
「どうぞ、入ってください。」
 志歩しほは部屋に入るなり、やや高揚したような様子で、茉莉花まりかに伝える。
「お嬢様、旦那様と奥様が、帰っていらっしゃいました。」
 その言葉を聞いたとたん、茉莉花まりかの鼓動は速さを増し、手には汗がにじむ。思わず、ブラウスの裾をつかんだ。
「わかりました。今からお父様たちのところへ行きます。」
「わたしもご一緒したほうがよろしいですか?」
「はい、一緒に来てください。」
 茉莉花まりかはゆっくりとうなずいた。
 茉莉花まりか志歩しほが一階に下りると、重元しげもと桜子さくらこは玄関から、自分の部屋へ向かおうというところだった。茉莉花まりかを見つけた重元しげもとが、声をかける。
「ただいま、茉莉花まりか。留守中はどうだったか? 大学にはちゃんと行けているか?」
 だが、茉莉花まりかはそれには答えずに、口をぐっと結んでから、言いたいことを形にする。
「お父様。礼諒なりあきさんは、どこにいるの?」
 どこまでも真剣で、まるで重元しげもとをにらむかのように、きつい顔をする茉莉花まりか。一瞬、驚きを見せた重元しげもとだが、すぐに冷静さを取り戻した。
礼諒なりあきは、契約違反をしたから、解雇した。今まで礼諒なりあきを雇っていたのは、わたしだ。問題ないだろう。」
「なぜ、解雇だなんて。お父様、わたしは……。」
 思わず涙があふれそうになり、声が震えるのを抑えながら、茉莉花まりかはただひたすら、自分の気持ちを伝えにいく。
「なぜ、とな? 茉莉花まりかよ、茉莉花まりか礼諒なりあきは、主人と執事見習いという立場を破り、個人的な関係になったのだ。執事としてふさわしい、とは言えないだろう。また、そのせいか、拓真たくまくんとの結婚話も……。」
上月こうづきさんと、結婚するわ!」
 茉莉花まりか重元しげもとの言葉をさえぎり、思わず叫んでいた。想像していなかった言葉に、重元しげもと桜子さくらこも、目を丸くする。
上月こうづきさん本人に、結婚する意思を伝えたわ。上月こうづき家のご当主にも、きっと伝わっているはずよ。だから、礼諒なりあきさんを……。」
「ちょっと、待ちなさい、茉莉花まりか。それは本当なのか?」
 さすがの重元しげもとも、茉莉花まりかの変わりように、驚きを隠せないようだった。声に冷静さがなくなり、慌てぶりを見せている。
「もちろん、本当よ。こんなことでうそをついても、すぐにわかってしまうじゃない。」
「わ、わかった。茉莉花まりか、ここで話すのもなんだから、後で執務室に来なさい。出張の荷物の片付けが済んだら、吉川よしかわに、呼びにいくよう伝えるので、少し待っていなさい。」
「ええ、そうするわ。」
 茉莉花まりかは落ち着きのある声を取り戻し、重元しげもとの指示に従うことにした。
 茉莉花まりか志歩しほと一緒に、部屋で待機していると、ほどなくして吉川よしかわが、茉莉花まりかを呼びにきた。
「お嬢様、旦那様のご準備が整いました。執務室においでください。」
「わかりました。志歩しほさん、よろしくお願いします。」
 茉莉花まりかは不安そうに、志歩しほの顔を見る。志歩しほは穏やかな顔で、
「かしこまりました、お嬢様。わたしがついていますから、大丈夫ですよ。」
と返した。
 執務室に入ると、重元しげもとが、机の前に座っている。桜子さくらこは、机の横に座り、場の様子を見渡すような位置を取っていた。
 茉莉花まりかは机の前に進むと、まっすぐに重元しげもとを見た。少し離れたところから、茉莉花まりかを見守る志歩しほ
 重元しげもとが、ゆっくりと口を開いた。
「話をする前に、確認しておきたいことがある。まずは礼諒なりあきについて。先ほども言ったが、礼諒なりあきは主人と使用人の立場を破り、茉莉花まりかと個人的な関係になった。それは執事見習いとしてふさわしくない。そもそも契約違反だ。だから解雇した。それはわかっているな?」
「ええ、わかっているわ。」
「もう一つ、拓真たくまくんとの結婚話について。吉川よしかわに確認してもらったが、確かに茉莉花まりかは、拓真たくまくんと結婚する意思を伝えたそうだな。ご当主によると、あとはわたしの返事を待つだけ、とのことだ。」
「ええ、その通りよ。わたし、決めたの。これからは、主人と使用人の立場はきちんとわきまえるわ。上月こうづきさんとも結婚する。将来は、一宮いちのみや家を背負って立てる、立派な当主になってみせるし、そのために、これからやってくる多くのことをこなして、身につけて、困難を乗り越えようと思っているの。だから……。」
 一番肝腎なところで、思わず言葉に詰まる。なかなか声にならない。だが、これを乗り越えなければ、礼諒なりあきと会うこともできない。茉莉花まりかは勇気を振り絞り、重元しげもとに訴える。
「だから、執事は、自分で選ばせてほしいの。わたしの執事は、礼諒なりあきさんにさせてほしいの。わたしにはどうしても、礼諒なりあきさんが必要なの。礼諒なりあきさんがそばにいてくれるなら、どんなことも乗り越えてみせるわ。お願い、お父様、どうか礼諒なりあきさんを……。」
 茉莉花まりかは全身をこわばらせ、歯を食いしばり、手をぐっとにぎり、その場で固まったようになった。重元しげもとは、何も言わずに茉莉花まりかを見つめ、難しそうな顔をしている。しばらく、沈黙が続いた。やはり聞き入れてもらえないのだろうか……茉莉花まりかがそう思ったとたん、後ろから、志歩しほが発言した。
「旦那様、よろしいですか?」
「なんだ?」
礼諒なりあきさんを、お嬢様の執事として、認めてくださいませんか?」
 内容については予想していたものの、志歩しほ直截ちょくせつ的な物言いに、重元しげもとは思わず目を見張る。
「わたしの拝見する限り、礼諒なりあきさんの仕事ぶりは、執事としてふさわしく、頼りになるものです。将来、お屋敷の管理をまかせるのに、充分でしょう。」
「確かに、そうではあるが……。」
「何より、主人と執事にとっていちばん大切な、信頼関係も、きちんと築かれています。お嬢様がこれから先、大学を卒業されてお仕事をなさっていくにあたって、そして一宮いちのみや家のご当主になられたとき、礼諒なりあきさんは、必ずやお嬢様の助けになるはずです。お嬢様のお心を満たすことが、ひいては一宮いちのみや家のため、多くの人々のためにもなるのです。」
 重元しげもとは、机の上で手を組みながら、だまって志歩しほの言葉に耳を傾けている。
「旦那様、お嬢様はいつも、ひたむきな努力を重ねていらっしゃいます。ですからどうか、お嬢様のお願いを、お聞き入れください。」
 志歩しほは口角を上げ、前向きな態度でしめくくった。重元しげもとは、あごに手を当てると、考え込んでいる様子になった。ふたたび沈黙が続くかと思われたそのとき、桜子さくらこが口を開く。
「ねえ、重元しげもとさん。茉莉花まりかの願いを、聞いてあげて。」
桜子さくらこさん……?」
 重元しげもとが、思わず桜子さくらこのほうへ体を向ける。正直に言うと、「当代当主の妻」という立場である桜子さくらこは、自分に寄った判断を下すのではないかと思っていた。だが桜子さくらこは、「母親」としての立場を選んだのだろう。
茉莉花まりかは、仕事も結婚相手も選べないんだもの。子どものころからずっと、一宮いちのみや家を継ぐことや、親が決めた相手と結婚することを、言い聞かされていたものね。一人っ子だし、跡を継ぐことへの重圧も、大きいのではないかしら。」
「それは、そうだな。」
 重元しげもとは、半ばひとりごとのように、ぽつりとつぶやいた。
「だからね、自分で選ぶことのできる、執事は……選ばせてあげてもいいのではないかしら? わたしの目から見ても、礼諒なりあきは優秀だし、とても頼りにしているのよ。」
 桜子さくらこが、たたみかけるように、重元しげもとに言う。優しい目の奥に、譲らない強さが見えるようだった。
 重元しげもとはふたたび、茉莉花まりかのほうへと向きを変え、ゆっくりと目を閉じたかと思うと、すぐに目を開けて、茉莉花まりかに告げた。
「わかった。茉莉花まりかには、どうしても礼諒なりあきが必要だということだな。願いを、聞き入れよう。そのかわり、きちんと主人と使用人の立場を、わきまえるのだぞ。」
「お、お父様、本当に?」
 まるであたり一面に花が咲いたように、茉莉花まりかの顔も、場の雰囲気も、一気に明るくなる。躍動感を取り戻した茉莉花まりかは、満面の笑みをたたえていた。
「ただし、一つ条件がある。」
 重元しげもとが厳しい顔で、声を発すると、一瞬で空気が引き締まった。
茉莉花まりか、そなたが自分で選んだ執事見習いなのだから、居場所も自分で突き止めなさい。」
「え? お父様、そんな、どうやって……。」
 茉莉花まりかは困惑した表情になった。自分で突き止めろ、と言われても、手がかりもなしに、どうやって――。血の気が引いたような茉莉花まりかに、重元しげもとは立ち上がると、冷静に言った。
「まあ、落ち着きなさい。今から吉川よしかわを呼ぶから、その後で説明しよう。」
 重元しげもとは、電話で吉川よしかわを呼び出す。会話で、「例のもの」と、何やら示し合わせたような内容で連絡している。
 少し経って、吉川よしかわが執務室に入ってきた。腕には10センチほどの、紙の束を抱えている。
「お待たせしました、旦那様。」
吉川よしかわ、それを茉莉花まりかに見せてくれ。」
 吉川よしかわは紙の束をいったん、机の手前あたりに置くと、茉莉花まりかへ説明を始めた。
「お嬢様、これは、一人暮らし向けのマンションの資料です。間取り、住所、管理人の連絡先などが記載されています。」
 茉莉花まりかは机に置かれた束の、いちばん上になっている資料を見る。吉川よしかわの言う通りの内容が、確かに書かれているようだった。
礼諒なりあきは、この中のどこかにいます。お嬢様なら見つけられるでしょう。ご健闘をお祈りしております。」
「では、この資料を見て、管理人さんに問い合わせたりしなさい、ということですね?」
 ひらめいたように、茉莉花まりかが言う。
「その通りだ。さすがは茉莉花まりか、話が早いな。そういうわけで、礼諒なりあきのことは自分で見つけなさい。志歩しほに手伝ってもらうのは、かまわないからな。」
 重元しげもとは厳格な様子で、茉莉花まりかに告げた。
 茉莉花まりかは資料の束を志歩しほに持ってもらい、執務室を出た。
 自分の部屋に戻ると、茉莉花まりかはテーブルの前に座り、資料をざっと眺めた。見終わると、そばでじっと茉莉花まりかを見守っている志歩しほのほうを向き、思いついたことを言った。
「いろいろな場所のマンションがありますが、まずは礼諒なりあきさんの大学の周辺から、当たってみることにします。」
「それがよろしいですね。今日はもう遅いですし、まずは資料を並べ替えましょう。」
「ええ。あ、でも、礼諒なりあきさんの大学の住所がよくわからないわ。町名と、位置も……。」
「ではお嬢様、学習室で作業をいたしましょうか。コンピューターもありますし、地図を見ながら調べられますよね?」
 志歩しほはにこやかに、茉莉花まりかに語りかける。その笑顔に、確信のような気持ちを、ほのかに感じた。
 学習室へ行った二人は、さっそくコンピューターで、礼諒なりあきの大学の住所を調べ、それを元に、礼諒なりあきのいそうなマンションに、見当をつけ、優先順位を決めていく。単純なようで、骨の折れる作業だった。一段落すると、また茉莉花まりかの部屋へ戻る。志歩しほはいったん台所に行き、茉莉花まりかに出すお茶を持ってきた。
 志歩しほが淹れたお茶を飲みながら、茉莉花まりかはふっとため息をついた。美しい緑色も、今は心のなぐさめにはなってくれない。自信なさげな表情を察し、志歩しほ茉莉花まりかを力づけるように、声をかける。
「お嬢様、きっとすぐに、礼諒なりあきさんとお会いできますよ。わたしがついています。どうかおまかせください。」
「ありがとうございます、志歩しほさん。」
 茉莉花まりかはひとことだけ言うと、あとは静かにお茶を飲み干した。
 翌日は、講義は比較的早い時間に終わる日だった。茉莉花まりかは家に帰るなり、片付けもそこそこに、電話をかけ始めると決めた。今、重元しげもとは仕事で出かけているため、吉川よしかわに頼んで、執務室の電話を使わせてもらう。
 執務室には電話が1台しかないため、茉莉花まりかが自分で電話をかけることにした。志歩しほは、手伝う、と申し出たが、茉莉花まりかは、やはり自分の希望だということで、基本的にはすべて自分でかける、と答えた。
 とはいえ、茉莉花まりかは自分で電話をかけた経験はごく少ない。受話器を上げた瞬間に、持つ手が震える。番号を押す指は戸惑いを見せ、思い通りに動かない。やっとのことで番号を押し終わっても、相手が出るまで、押した番号が正しいのか、自分を疑ってしまう。いざ相手が出ると、手には汗がにじみ、頭は真っ白になる。
『はい、メゾンルミエールです。』
「あ、あの、すみません、お伺いしますが、そちらの入居者に、笹原ささはら礼諒なりあきという、男子大学生の方はいらっしゃいますでしょうか……。」
 たどたどしい、いかにも不慣れな言葉遣いで、おそるおそるたずねる茉莉花まりか
『申し訳ありませんが、入居者の方に関するお問い合わせには、お答えしておりません。』
 電話の相手は事務的に答えると、容赦なく電話を切った。もちろん、今の時代、それが普通の反応だということは、知識として知っている。だが、実際にそのような対応をされると、すぐには受け止められるものではなかった。
 志歩しほ茉莉花まりかの隣に座り、茉莉花まりかの行動を見守っている。机にうなだれ、へこたれた様子の茉莉花まりかを見て、心配そうに、志歩しほが言う。
「お嬢様、やはりわたしが、電話をおかけしましょうか?」
 茉莉花まりかは急に、さっと背筋を伸ばすと、真剣な顔になり、志歩しほに返した。
「いいえ、わたしが自分ですると決めたので、自分でします。」
 そして、電話をかけるのを再開した。
 それぞれのマンションの管理人と、何度か先ほどのようなやり取りが続き、茉莉花まりかの目には涙がにじんでいく。声の震えも大きくなり、顔が見えない相手にも、泣いているのが伝わるようなありさまだった。
「お嬢様、いったん休憩しませんか?」
「そう……ですね。でも、もう1件だけかけてからにします。」
 茉莉花まりかはくちびるをかみしめると、次の資料を見て、ていねいに番号を押した。やや長めの呼び出し音の後、相手が出る。
「あの、わたし、一宮いちのみや茉莉花まりかと申します。そちらの入居者に、笹原ささはら礼諒なりあきという、男子大学生の方がいらっしゃらないか、お伺いしたいのですが……。」
 答えられない、と言われる可能性は、もちろん覚悟していた。茉莉花まりかが用件を伝えた後、相手から返事をもらうまでの、一瞬の間。だが茉莉花まりかには、おそろしく長く感じられた。茉莉花まりかの鼓動がどんどん速くなっていき、限界を感じ始めたとき、相手から帰ってきた言葉は――。
一宮いちのみやさん、ですか。失礼ですが、どのようなご用件で?』
 今までとは違い、門前払いではない相手の態度を、不思議に思いながらも、思いついた言葉を、ひたすら口から出していく。
「あ、あの、わたし、一宮いちのみや重元しげもとという者の娘で……。父が、笹原ささはら礼諒なりあきさんの住居の世話をして、そちらに入居していないか、と思いまして。差し支えなければ、そちらまでお伺いしてよろしいでしょうか?」
 相手に伝わったのか、伝わっていないのか、自信が持てなかったものの、ただひたすら流れに任せ、うまくいくよう祈る。
一宮いちのみや重元しげもとさんの娘さん……。わかりました。それで、こちらにおいでになりたい、とのことですね?』
「は、はい、そうです。」
『では、ご都合の良い時間をお知らせください。その時間に、管理人室においでください。お話を伺います。』
「本当ですか? ありがとうございます!」
 茉莉花まりかの顔が、にわかに晴れやかになった。相手は、このマンションに礼諒なりあきがいる、とは言わなかったが、回答の内容からして、ほぼ確実に、礼諒なりあきがいると思われる。茉莉花まりかは都合の良い日として、さっそく明日の午後の早い時間を指定する。明日はもともとは講義が最後まであるのだが、たまたま休講になり、早く帰れる予定になっていた。
 茉莉花まりかが受話器を置くと、志歩しほがうれしそうに、茉莉花まりかに笑いかける。
「お嬢様、おめでとうございます。礼諒なりあきさんにお会いできるのも、きっともうすぐですね。」
「ありがとうございます、志歩しほさん。いつも協力してくださって、今もそばについてくださって、本当に助かっています。」
「いいえお嬢様、すべてはお嬢様の努力の賜物でございますよ。いつもひたむきに頑張っていらっしゃるからこそ、まわりの人たちの信頼も得ることができるのです。」
 茉莉花まりかの目からは、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。だがそれは、さっきまでとは違う色合いを持っていた。
 茉莉花まりか吉川よしかわを呼び、執務室に来てもらった。いすに座っている茉莉花まりかと、机の前に立っている吉川よしかわが、向かい合う。
「お嬢様、何のご用でございましょう。」
吉川よしかわさん、礼諒なりあきさんが住んでいるであろうマンションを見つけました。管理人さんに、お話を聞いていただけるよう、約束もしました。明日、大学の講義がいくつか休講になったので、早めに帰れます。大学から直接、このマンションに送ってください。」
 茉莉花まりかは立ち上がると、礼諒なりあきがいるであろうマンションの資料を胸の前にかざし、吉川よしかわに見せた。
「かしこまりました。では、明日は大学からいったんお屋敷に帰ったりはなさらず、直接このマンションに向かわれる、ということでよろしいですね?」
「はい、お願いします。」
 茉莉花まりか吉川よしかわに頭を下げた。
 翌日、そわそわする気持ちを抑えながら、茉莉花まりかは講義を受けていた。幸い、当てられるような講義はなかったので、助かっていた。だが、先生の話も、テキストの内容も、ビデオの映像も、頭に入ってこない。それどころではなかった。茉莉花まりかは、礼諒なりあきに会えたらきちんと復習しよう、と決め、今は浮ついた気持ちを、受け入れることにした。
 講義が終わると、ちょうどいい時間に、吉川よしかわが迎えにきた。車には、志歩しほも乗っている。茉莉花まりかはさっと車に乗り込み、姿勢を整えた。
 車の中では、最低限の用件がかわされるくらいで、ほとんど静かだった。車の立てる物音が、茉莉花まりかの心臓の動きに合わせるように響く。
 3人を乗せた車は、少しずつ、礼諒なりあきのいるであろうマンションへと進んでいった。