一生、お仕えします その20

第20話 再会

 車がマンションの前に着いた。茉莉花まりか志歩しほが、車から降りる。吉川よしかわは、後で迎えに来ることになり、用事が終わり次第、志歩しほ吉川よしかわに連絡することになった。
 5階建てで、それほど大きいというわけでもない、一人暮らし向けといった印象のマンションだった。落ち着いたれんが色の壁が、安心感を醸し出している。
 敷地に入り、少し歩くと、管理人室が見えてきた。受付の窓があり、そこから用件を話せるようになっている。窓の向こう側に、年配で、雰囲気の柔らかい、ショートヘアの女性が座っていた。茉莉花まりかはおそるおそる、声をかける。
「恐れ入ります。お約束させていただいている、一宮いちのみや茉莉花まりかです。」
「はい、一宮いちのみやさんですね。どうぞ、お入りください。」
 女性は茉莉花まりか志歩しほを、管理人室の中に入るよう、うながした。
 女性――管理人は、志歩しほよりもやや背が低めで、すらりとし、背筋がぴんとしていた。深い緑色の、衿つきの長袖カットソーに、黒無地のパンツと、落ち着きを与える服装をしている。穏やかな話し方で、普通に話すだけなら、警戒心を持つようなことはなさそうだった。茉莉花まりかは少しだけ、緊張がほぐれたような気がした。
 管理人室は、作業のための場所と、来客対応時の場所が簡易的に区切られていた。来客用には、簡素だが清潔な、角の丸い、長方形のテーブルが置かれ、セットだと思われる、いすが6客置かれていた。管理人に案内され、茉莉花まりか志歩しほはいすに座る。茉莉花まりかの向かい側に、管理人が座った。
 管理人が、簡単に自己紹介をした。現在60代で、数年前から、夫婦でこのマンションの管理人の仕事をしている。今は夫が外出中で、夫婦そろって応対しないといけない内容でもなさそうだということで、妻である自分一人で応対する、と説明した。
 茉莉花まりかは管理人に、名刺を渡した。昨夜、志歩しほが急ぎで、コンピューターとプリンターで作ったもので、名前と、一宮いちのみや家の屋敷の電話番号くらいの、ごく少ない情報を、黒のインクで印刷した、簡素なものだった。
 管理人は名刺を受け取ると、感心したような表情を見せる。
「まあ、わざわざお気遣いいただき、ありがとうございます。さすが、一宮いちのみや家の跡継ぎでいらっしゃるお方は、しっかりされているのですね。」
 管理人がそう言うと、茉莉花まりかが、
「いえ、名刺は志歩しほさん……彼女の提案なのです。ですから、わたしがしっかりしているわけではないんです。」
と、志歩しほを手で差しながら、答えた。
「でも、そんな素晴らしい提案をなさる、優秀な秘書の方がいらっしゃるというのは、きっと一宮いちのみやさんの人徳のいたすところでございますよ。」
 管理人が、にこやかに返した。茉莉花まりかはどことなく、恥ずかしいような、もったいない言葉のような、罪悪感に似た気持ちをおぼえた。人徳――ただのわがままのみで、礼諒なりあきをそばに置いておきたい自分に、人徳などあるのだろうか――。
 だがそんな迷いにひたっている暇もなく、話はすぐに本題へと移る。
「ではさっそくですが、改めまして。一宮いちのみやさんは、笹原ささはらさんにご用件がある、ということでよろしいですか?」
「はい。礼諒なりあきさんに、お会いしたいのです。」
「失礼ですが、直接、笹原ささはらさんにご連絡をお取りになることは、できないのでしょうか?」
 管理人の鋭い質問に、茉莉花まりかは答えるすべもなく、言葉を飲み込む。
「本来ならば、こうやって、入居者の方と、個人的にご用事がおありのようなご来客の方とを、仲介するということは、お断りしているのですけれど……。」
「そう、ですよね……。」
 茉莉花まりかは自分がしていることが恥ずかしくなり、うつむく。志歩しほ茉莉花まりかのほうを向き、心配そうに茉莉花まりかを見た。
「ですが、今回の件につきましては……。一宮いちのみや重元しげもとさん、つまり、一宮いちのみやさんのお父様ですね。重元しげもとさんから、もし娘さんからお問い合わせがあれば、笹原ささはらさんをご案内するように、と仰せつかっているのですよ。」
「えっ?」
 茉莉花まりかは管理人の言葉に、思わず顔を上げた。
「ですから、今回は笹原ささはらさんのお部屋にご案内いたしましょう。ただし……。」
「それは、本当ですか?」
 茉莉花まりかは管理人の話をさえぎった。確かに、礼諒なりあきをこのマンションへ住まわせた決定権は、最終的には重元しげもとにあるとはいえ、話の流れでいきなり重元しげもとの名前が出てきたことは、思いもよらなかった。

 礼諒なりあきは、マンションの自分の部屋へと帰ってきていた。マンションの入り口を通るとき、管理人室をちらりとのぞいたが、そのときは、管理人はいなかったようだった。夫婦二人でやっている管理人ではあるが、マンションの掃除をしたり、買い出しなどの用事で外出したりと、ときどき、一瞬だけ二人ともいないこともある。だが、安全管理はしっかりしているマンションのようで、不審者がいれば、すぐに警報が鳴るようになっているらしい。そのため、管理人がいないことは、それほど気にしなかった。
 今日は、早めの帰り。礼諒なりあきは、大学の帰りに買い物をした買い物バッグを、部屋の小さなテーブルの上に置く。冷蔵庫に入れるものは入れ、ほかのものも、決めた位置にしまった。一人暮らしを始めて、そろそろ2週間といったところだろうか。一宮いちのみや家では、仕事として家事を覚えたこともあり、慣れた手つきで、日々の生活をこなし始めつつあった。大人数の一宮いちのみや家と、自分一人だけの生活とは、規模や勝手は違うものの、自分なりに応用することで、感覚がつかめてくる。
 買った物や、大学の勉強道具を片づけ終わり、礼諒なりあきはひと息つこうと、ベッドに腰かけた。一宮いちのみや家の自分の部屋でもそうしていたように、好きなシーツや枕カバーで、睡眠環境を整え、インテリアも少し楽しむ。寝心地だけでなく、座ったときの感触も好きなこのベッドで、考えるのは、やはり茉莉花まりかのことだった。
 正直に言うと、一人暮らしは意外と気楽で、結構気に入った。重元しげもとの約束通り、大学卒業まで、学費や生活費の世話をしてくれ、アルバイトも紹介してくれるという。重元しげもとはしばらく、海外出張だったので、帰り次第、準備をし、連絡をくれる、とのことだった。
 大学の学科は、自分の興味のある分野を選んだし、このまま大学生活を楽しんで卒業、就職すれば、生きていくことができるだろう。その中で、新たな出会いもあり、恋する相手も見つかるかもしれない。その人と、いつか結婚し、家庭を持つ、そんな人生でもいいかもしれない。自分のしてしまったことは素直に受け止め、新たな人生に向かっていくしか、ないのかもしれない。
 だが、それでも――。礼諒なりあきは悔やんでいた。せめて、茉莉花まりかに別れのあいさつだけはしたかった。自分が、一宮いちのみや家の使用人として許されないことをしてしまったのは、充分わかっている。だからといって、いきなり追い出されてしまい、自分のことよりも、茉莉花まりかのことが何よりも心配でたまらない。自分のことを信頼してくれ、そして――好きだと言ってくれた茉莉花まりか。知らぬ間にいなくなって、どんなにか心を痛めているだろうか。今は新しい執事見習いがいるのだろうか。お互い、打ち解けるまでに時間がかかったことを思い出し、茉莉花まりかが心細い思いをしているかもしれない、でも連絡を取ることもさせてもらえず、確かめるすべなどない、と、もどかしくてたまらなかった。
 とはいえ、一度、「執事見習い」という立場の者と、信頼関係を築いた経験のある茉莉花まりかのこと、新しい執事見習いとは、うまくやっていけているのかもしれない。もう2週間も経ったのだ。毎日顔を合わせていれば、新しい者にも慣れてくるだろう。もし、新しい執事見習いが優秀なら、そのほうが茉莉花まりかにとってもいい。そうであるならば、自分はいさぎよく身を引く覚悟も決めていた。別の道を進むならばこそ、けじめとして、きちんとひとこと、言わなければならない。
 でも、本当は――。ずっと茉莉花まりかのそばにいられるのなら、それが何よりの幸せだった。茉莉花まりかとの結婚が許されないのなら、せめて執事として、茉莉花まりかを支えたい。茉莉花まりかの笑顔を増やしたいし、そばで見守っていたい。もしそれを、茉莉花まりかも望んでいるというのならば……。
「でも、そんなこと考えても、どうしようもないよな。僕が自由にできる立場じゃないんだし……。」
 礼諒なりあきは吐き出すようにつぶやくと、ベッドから立ち、今度は机に座った。
 しばらく前に出た、哲学の講義のレポート課題。「今ここ」というテーマが与えられ、それに関する本を読んで、テーマについての主張・説のまとめや、自分の考えを、2000字ほどで述べる、といった内容だった。昨日、本を読み終わり、ノートに考えをまとめた。今から、下書きに入る予定だった。
「今ここ、か。結局、過去を悔やんだり、ありもしない未来を考えたりしないで、目の前にある現実を受け入れるしか、ないんだよな。」
 礼諒なりあきはまた、ひとりごとを言うと、静かに集中し、レポートの下書きの、最初の一文を書き出した。

「本当に、父が礼諒なりあきさんを案内するよう、申していたのですか?」
 茉莉花まりかはやや混乱し、管理人に確認する。重元しげもと礼諒なりあきを解雇した、という割には、茉莉花まりかに会う機会を与える可能性を残していることに、不思議に思うも、目の前にいる管理人は、そのようなことでうそをつくようには見えなかった。
「ええ、本当ですよ。」
 管理人は、優しそうな瞳で答えると、今度は質問をし返した。
「ところで一宮いちのみやさん、笹原ささはらさんのお部屋にご案内する前に、いくつかお伺いしたいことがございますが、よろしいですか?」
「は、はい。」
 茉莉花まりかは身構えた。鼓動が速くなり、肩はこわばっている。管理人は茉莉花まりかの様子を気にするように、手許てもと茉莉花まりかの顔に、交互に視線を移動させながら、話を始めた。
「そもそも笹原ささはらさんは、一宮いちのみや家の使用人だったとお聞きしていますが、そうなのですか?」
「はい、その通りです。わたしの秘書のような仕事や、給仕などをしていました。」
 茉莉花まりかは、張りつめた声で答える。
「わかりました、ありがとうございます。失礼ですが、やはり、一宮いちのみやさんから直接、笹原ささはらさんにご連絡をなさることは、可能ではないのですか?」
「えっと、それは……。」
 答えに窮する茉莉花まりか。管理人が疑問に思うのも、もっともだった。本来なら、自分か、一宮いちのみや家の使用人が直接、礼諒なりあきに連絡を取るべきなのだ。茉莉花まりかはつい、歯を食いしばる。
「ですが、笹原ささはらさんは一宮いちのみや家の使用人をおやめになって、このマンションにおいでになったとか。つまり、使用人ではなくなったから、連絡を取ることはできなくなった、という感じでしょうか?」
「そう、なりますね……。」
 茉莉花まりかは震える声で、ようやくひとこと、口を開く。隣に座っている志歩しほが、
「あの、恐れ入ります。実は……。」
と、割って入ろうとしたが、茉莉花まりかが、
志歩しほさん、ありがとうございます。わたし一人でお話しできるので、大丈夫です。」
とさえぎり、志歩しほに微笑みかけた。
 茉莉花まりかがふたたび、管理人のほうを向くと、管理人は、まじめな顔で、話をまとめ始めた。
「お話は理解しました。では、笹原ささはらさんのお部屋にご案内させていただきますが……。その前に一宮いちのみやさん、一つ、ご確認申し上げたいことがございます。」
「はい。」
笹原ささはらさんが、どのようなご事情で使用人をおやめになったのかは存じませんが、もしかすると、もう一宮いちのみやさんにはかかわりたくない、と思っていらっしゃる可能性もあります。その場合、笹原ささはらさんにはお会いできないかもしれませんが、それでもよろしいですか?」
 茉莉花まりかは即座に、血の気が引く思いがした。一宮いちのみや家から「追放」されて、礼諒なりあき茉莉花まりか一宮いちのみや家とかかわりたくない、と思っている可能性――そこまで頭が回らなかった。自分の気持ちだけで、礼諒なりあきのことなど、何一つ考えていなかったのではないか? 己の至らなさが、心の深くまで突き刺さる。
 とはいえ、ここまできて、やっぱりやめる、というわけにもいかない。まずは、礼諒なりあきの意思を確認しなければ、今の状態から動けない。自分だけの思い込みで、何もせずにあきらめたくない――。茉莉花まりかは意を決して、管理人の言葉に返事をした。
「はい、承知いたしました。どうか、礼諒なりあきさんのお部屋まで、ご案内をよろしくお願い申し上げます。」
 茉莉花まりかは深々と頭を下げた。
 管理人が、ことを進めようとするものの、ふと、あることに気づいたようだった。
「では、今からご案内差し上げますが……。今、笹原ささはらさんはいらっしゃるか、わかりかねますので、もしいらっしゃらない場合、しばらくお待ちいただいてもかまいませんか?」
「そうですね。あ、でも、今の時間でしたら、もう帰っている可能性もあります。時間割を考えると、今日は礼諒なりあきさんの講義は、終わっているはずです。」
 茉莉花まりかも思い出したように、自分の知っている情報を伝える。
「あら、そうなのですか。さすが、ご自分の秘書だった方のことは、把握していらっしゃるのですね。わざわざマンションまで訪ねていらしたし、きっと、笹原ささはらさんのことをとても大切にお思いなのですね。」
 管理人が、どことなくうれしそうに、にこやかに言う。茉莉花まりかは、自分の気持ちを見透かされたような気がして、頬を赤らめた。自分の恋心を隠すように、声に強さを込める。
「ええ、礼諒なりあきさんは、わたしにとって、とても大切な……右腕なのです。彼がわたしに尽くしてくれているように、わたしも主人として、彼を守る。お互い、支え合っていた間柄です。ですから、礼諒なりあきさんのことを、一人の人間として、きちんと知っておくのも当然のことなのです。」
一宮いちのみやさんは、とてもしっかりした考えでいらっしゃるのですね。さあ、では笹原ささはらさんのお部屋に参りましょうか。」
 3人は立ち上がり、管理人室を出て、マンションの入り口から中に入った。
 礼諒なりあきの部屋は、3階とのことだった。3人で、エレベーターに乗った。管理人が、「3」のボタンを押す。エレベーター上部のパネルが、「1」から順に点灯し、やがて「3」になって、目的の階に着いたことを知らせる。ドアが開き、3人は一人ずつ降りた。
 管理人が先頭になり、礼諒なりあきの部屋へ向かって歩いていく。一歩進むごとに、茉莉花まりかの鼓動は速くなっていく。本当に礼諒なりあきに会えると思うと、かえって足がすくみそうになる。
 エレベーターからそれほど遠くない、部屋のドアの前で、管理人は足を止めた。
笹原ささはらさんのお部屋はこちらです。」
 茉莉花まりかは深呼吸をする。両手を胸に当て、服の布地をつかむ。志歩しほが、
「お嬢様、大丈夫ですよ。わたしもおつきしています。」
と、小さな優しい声で、茉莉花まりかを励ました。
「では、インターホンを押しますね。」
 管理人が、インターホンのボタンの前に、指を持ってくる。茉莉花まりかは反射的に、後ずさりした。志歩しほが慌てて茉莉花まりかのそばまで行く。茉莉花まりか志歩しほは、礼諒なりあきの部屋のインターホンのカメラから、離れる形になった。

 礼諒なりあきが、机で伸びをした。課題のレポートの下書きが終わって一段落し、一休みしようか、といったところだった。
 唐突に、インターホンが鳴る。一瞬、不思議に思ったが、今まで2度ほど、管理人が玄関まで直接訪ねてきたことがあり、今回もそうだろうということで、いすから立ち、ドアのあたりまで行くと、インターホンのモニターを見た。案の定、管理人の姿が映っている。礼諒なりあきはインターホンの通話ボタンを押し、ドア越しに管理人に話しかけた。
「はい、なんのご用でしょうか?」
笹原ささはらさん、今少し、お時間よろしいですか?」
「かまいません。」
 何か用事があるのなら、ちょうどいいタイミングだったと思いながら、礼諒なりあきは管理人の返事を待つ。
「実は今、一宮いちのみやさんという方がいらしているのですが、お会いになりますか?」
「えっ?」
 礼諒なりあきは、「一宮いちのみや」という名前に、自分の耳を疑った。確かに、重元しげもとが、アルバイトの紹介に来てくれるという話はしていた。だが、今日だったか、ということは、記憶にない。そのような重要なことは、礼諒なりあきは必ず手帳に記入しているし、そもそも、まだ日付も決まっていなかったはずだった。準備が整い次第、吉川よしかわから連絡が来ることになっていたが、その連絡もない。吉川よしかわが連絡を忘れることも、考えられない。もしかして、緊急の何かが起こったのだろうか? 礼諒なりあきは怪訝な顔をしながら、
「はい、お会いします。」
と答えると、ドアを開けた。
 そこに立っていたのは――茉莉花まりか志歩しほだった。
「え? お嬢様……茉莉花まりか様? なぜ、ここに……?」
 礼諒なりあきは言葉を失う。自分の目に映る光景が、まるで信じられなかった。目の前にいる茉莉花まりかは、果たして本物なのか。礼諒なりあきはあまりの驚きに、身動きができない。
 固まっている礼諒なりあきを見て、茉莉花まりかも感極まっているようで、言葉を出すのに力を使っているようだった。自分自身で、思いを伝えると決めた茉莉花まりかは、手をぐっと握ると、礼諒なりあきの目をまっすぐに見て言った。
礼諒なりあきさん、迎えにきたわ。」
「え? 茉莉花まりか様がわたしを、お迎えに……? それはいったい……。」
 茉莉花まりかの言葉をうまく飲み込めず、礼諒なりあきは戸惑うような顔で、茉莉花まりかに返す。
一宮いちのみや家の屋敷に戻ってほしいの。戻って、また執事見習いとして、働いてほしいの。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきに、頭を下げた。礼諒なりあきはまだ、戸惑いを消せず、切なそうな顔で答える。
茉莉花まりか様、お気持ちはうれしいのですが、重元しげもと様に、二度と一宮いちのみや家のお屋敷には近づくな、と申し渡されたのですが……。」
「お父様とは、話をつけたわ。」
 礼諒なりあきの不安を打ち消そうと、茉莉花まりかは頭を上げて、自分の決意を話す。
「ちゃんと、お父様に、礼諒なりあきさんをわたしの執事として選ばせてくれるよう、話をしたの。お父様は、聞き入れてくれたわ。」
茉莉花まりか様……。」
「わたし、決めたの。これからは、ちゃんと主人と使用人の立場をわきまえるわ。それに、上月こうづきさんと……結婚することにしたの。」
 「結婚」の言葉が出たとき、礼諒なりあきの顔が、より切なさを増した。だが礼諒なりあきは何も言わず、静かに茉莉花まりかの話を聞いている。
「将来の一宮いちのみや家を背負って立てる、多くの人をちゃんと守れる、立派な当主になってみせるわ。そのためには、礼諒なりあきさんが必要なの。礼諒なりあきさんがそばにいてくれるのなら、どんなつらいことも、乗り越えてみせる。だから、礼諒なりあきさんには、ずっと執事として、支えてほしいの。」
 茉莉花まりかはどんどん言葉をあふれさせ、思いは、止められない滝のようになっていた。
礼諒なりあきさんとわたしが、使用人と主人にしかなれないというのなら、それを最大限に受け入れるまでよ。たとえどんな形でも、幸せをつかんでみせるわ。礼諒なりあきさんが嫌だというのなら、どうしようもないけれど……どうか、ずっとわたしのそばにいてください!」
 茉莉花まりかはふたたび、深々と頭を下げた。そのままじっと動かない。しばらく、沈黙が続く。
 やがて礼諒なりあきが、心を決めたように、茉莉花まりかに話しかける。
「お嬢様……。どうか、お顔をお上げくださいませ。」
 礼諒なりあきにうながされ、茉莉花まりかはゆっくりと顔を上げる。礼諒なりあきが優しい目で、まっすぐに茉莉花まりかを見ている。
「お嬢様、そこまで、わたしのことを想ってくださっているなんて、光栄の極みにございます。わたしのような、取るに足りない者のために、すべてを受け入れる覚悟をなさったのですね。」
 茉莉花まりかは不安そうに、礼諒なりあきの言葉を聞いている。次に何が出てくるのか、自分の思いをぶちまけてしまった後で、今さら返事を聞くのが怖い。
「お嬢様がそのような覚悟を決められたのなら、わたしも中途半端なことを申し上げることはできません。ですから……。」  礼諒なりあきは、今まででいちばん、優しく、しかしゆるぎない顔で、はっきりと口にした。
「お嬢様がお望みなら、わたしは一生、お嬢様に、お嬢様のためだけに、お仕えしますよ。」
礼諒なりあきさん……!」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの名前だけ呼ぶと、言葉に詰まり、気づくと目からはいくつもの涙の粒が、こぼれていた。
 ふいに、茉莉花まりかの体が、礼諒なりあきの腕に、ふわりと包まれる。茉莉花まりかは驚きと戸惑いに飲まれつつも、感情のあふれによる混乱のためなのか、うまく声が出せない。
 礼諒なりあきは落ち着いた声で、申し訳なさそうに言った。
「お嬢様、先ほど、『わきまえる』とおっしゃっていたのに、わたしがこのようなことをいたしてしまい、たいへん申し訳ございません。ですが、主人を安心させる、というのも執事の大切な仕事と存じます。どうか今しばらく、このご無礼をお許しくださいませ。」
 「無礼」などとんでもない。今は、幸せいっぱいなのだから……。
 茉莉花まりかはすっかり、礼諒なりあきに身をゆだね、礼諒なりあきの腕の強さと優しさ、体温を感じられることの喜びをかみしめていた。
 これからは、また以前のように、礼諒なりあきと一緒にいられるのだ。それが主人と使用人、という関係からずっと、抜け出すことが許されていないとしても。何よりも、そばにいられること、与えられた条件の中で精一杯の幸せ。茉莉花まりかにとっては、充分だった。