一生、お仕えします その21

第21話(最終話) いつまでもおそばに

 一宮いちのみや家の屋敷のダイニングで、茉莉花まりかが静かにお茶を飲んでいる。斜め前あたりで控え、茉莉花まりかを優しく見守る礼諒なりあき。横には吉川よしかわもいた。
 茉莉花まりかは湯飲みをテーブルに置くと、顔を上げ、満面の笑みで、礼諒なりあきの顔を見た。
礼諒なりあきさん、おいしいお茶をありがとう。また礼諒なりあきさんの淹れたお茶が飲めるなんて、夢のようだわ。」
「もったいないお言葉でございます、お嬢様。わたしのほうこそ、また一宮いちのみや家で働かせていただくことになり、感謝をいたしても、しきれるものではございません。」
 礼諒なりあきは丁寧に頭を下げた。
 ふと、吉川よしかわが話に割って入る。
「まったくだ。まさか旦那様が、本当に礼諒なりあきを解雇され、お屋敷からお出しになるとは思わなかったよ。礼諒なりあきがお屋敷に戻って、どれだけ安堵したことか。」
 吉川よしかわが、大きくため息をつく。ここしばらくの、心労がうかがえるようだった。
吉川よしかわさん、わたしのせいで、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。島村しまむらさんも、慌ただしかったのではないかしら。本当に申し訳ないわ。」
 茉莉花まりか島村しまむらに思いをはせた。礼諒なりあき一宮いちのみや家に戻る意思を確認した後、すぐに、吉川よしかわ重元しげもとが、島村しまむらの行き先を見つけ、紹介した。紹介状の内容と面談で、相手先の当主や執事は島村しまむらのことを気に入り、また島村しまむらもその屋敷を気に入ったようで、すぐに決定した。短時間で自分の荷物をまとめ、笑顔で一宮いちのみや家を去っていった島村しまむら茉莉花まりかに別れのあいさつをしたとき、礼諒なりあきのことに言及し、「末永くお幸せに」と言っていたことを、かすかに思い出し、一瞬、頬を染めた。
「お気になさることはございません、お嬢様。島村しまむらも、納得してのことですし、相手方も良いお家柄でございます。」
「そうですね。」
 茉莉花まりか吉川よしかわに、軽くうなずいた。
 礼諒なりあきが、二人の話に交ざってくる。
「わたしも、できれば島村しまむらさんに、ごあいさつを申し上げたかったのですが、叶いませんでした。」
「それは、礼諒なりあきさんの大学や、引っ越しの都合もあるから、しかたがないわ。もしかしたら、いつか島村しまむらさんに会う機会もあるかもしれないし、そのときにあいさつしても、いいと思うわ。」
 茉莉花まりかは穏やかな表情で言う。
 礼諒なりあきは、島村しまむらがいなくなった後に、一宮いちのみや家に引っ越した。大学の講義がない日に合わせて日程を組んだため、やや時間がかかった。
 戻ってきてまだ日が浅い。だが、以前と同じ配置で家具を置いた自分の個室を見ると、礼諒なりあきはすぐに、一宮いちのみや家に戻ってきた、と実感する。
「ありがとうございます、お嬢様。今は何よりも、お嬢様のためにお尽くししなければなりませんね。ご恩を忘れずに、これからもいっそう、お嬢様にお仕え申し上げます。」
 礼諒なりあきはまた、深々と頭を下げる。
「ありがとう、礼諒なりあきさん。わたしも、礼諒なりあきさんがずっとこのお屋敷にいられるように、今まで以上に気を引き締めていかないといけないわね。お父様がくれた、大切な機会だもの。」
 茉莉花まりかはどこか、切なそうな顔をした。だがすぐに、疑問符を浮かべた顔に変わる。
「ところで、なぜお父様は、礼諒なりあきさんに会う余地をくれたのかしら?」
 礼諒なりあきが執事としてふさわしくないというのなら、いっそのこと、完全に茉莉花まりかとは会えなくする手段もあったはずだ。そもそも、重元しげもと茉莉花まりかの願いを聞き入れ、礼諒なりあき茉莉花まりかの執事にしてもいい、と言っている。
 首をかしげる茉莉花まりかに、吉川よしかわが、明朗な声で言った。
「旦那様は、お嬢様を試されたのかもしれません。ですが、やはり恩情と、首尾一貫させる、という信念からでしょう。」
「恩情? 首尾一貫? どういうことですか?」
 吉川よしかわの言葉に、ますます混乱する茉莉花まりか吉川よしかわはふだん通りの真面目な顔をくずさず、明確に答える。
「旦那様は、お嬢様と礼諒なりあきとの、個人的な関係を、認められないとはお思いになったものの、やはり礼諒なりあきの優秀さや、お嬢様にとっては、礼諒なりあき以外は考えられないであろうことを考慮なさったのでしょう。そこで、お嬢様が礼諒なりあきにお会いできる機会をお与えになったのです。お嬢様がご自身で、礼諒なりあきを見つけることがおできになったら、礼諒なりあきを、お嬢様がお選びになった執事として認める、と。娘にとって大切な人を、そばに置かせてやりたいというお心、つまり旦那様も父親である、というわけでございます。」
「そう、なのかもしれませんね……。」
 自分と接するときでも、当主としての立場であることも多い重元しげもとを思い浮かべるとともに、父親としての思いもいだいてくれているであろうことを考え、茉莉花まりかの心は、ほんわりと温かくなった気がした。
 真剣に聞いている様子の茉莉花まりかを見て、吉川よしかわは一度、咳払いをしてから、話を続ける。
「それから、首尾一貫のことについてですが……。礼諒なりあきだけを追い出したのなら、わたしが今、旦那様にお仕えしていることのご説明が、申し上げられません。」
「え?」
 茉莉花まりか吉川よしかわの言っている意味がつかめず、眉を下げる。礼諒なりあきもまた、驚いているような顔をしている。
「いくら、個人的な関係は許されないからといって、ずっとおそばでお仕えしていたら、そのような気持ちも湧いてきてしまう、というものでございます。わたしも、礼諒なりあきと同じなのです。」
吉川よしかわさん……?」
 茉莉花まりかはなんとなく、吉川よしかわの言いたいことがぼんやりとわかってきたようで、目を丸くし、言葉を失っている。吉川よしかわはそのまま続けた。
「お嬢様、お気持ちを抑えるのはおつらいでしょう。お察しいたします。これからもずっと、耐えねばなりません。ですが、どうか、心の底から湧き出してくる、お気持ち自体は、大切になさいませ。」
「は、はい、ありがとうございます、吉川よしかわさん……。」
 茉莉花まりかは不思議そうな顔をしながら、吉川よしかわの様子をうかがいつつ、うなずいた。
 吉川よしかわ礼諒なりあきのほうを向くと、少し口角を上げて言った。
礼諒なりあきも、な。ただし、決して誤解されるようなことはせぬようにな。」
「しょ、承知いたしました、吉川よしかわ様。」
 突然声をかけられて、礼諒なりあきは肩をこわばらせた。受け答えが上手くいかなくなってしまう。
 だが、吉川よしかわはそんな二人の様子は意に介さずに、
「それではお嬢様、わたしはほかの仕事がありますので、失礼いたします。」
と、ダイニングのドアから出て行った。
 吉川よしかわがいなくなった後、しばらく二人は沈黙していたが、やがて茉莉花まりかが口を開く。
礼諒なりあきさん、吉川よしかわさんって、もしかして……。」
 口にしていいのかわからず、最後まで言うことができない。茉莉花まりかの思いを察したのか、礼諒なりあきがすくい上げるように答える。
「執事のかがみのような吉川よしかわ様でさえも、お若いころは、そのようなお気持ちに悩まれていたのでしょうか……。」
 ふたたび、二人は静かになる。茉莉花まりかが慌てたように言った。
「と、とにかく、これからはお互い、『仕事』に徹するしかないようね。礼諒なりあきさん、よろしく頼むわ。わたしも気をつけるわね。」
「は、はい、かしこまりました。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきも、なぜか緊張で固まっている。
 そのとき、ダイニングのドアをたたく音が響き、志歩しほが入ってきた。お盆の上に、クッキーを入れた皿を載せている。
「お嬢様、クッキーを焼いてみました。お召し上がりになりませんか?」
 志歩しほはテーブルの上に、お盆をそっと置いた。口金の模様が美しい、絞り出しクッキー、チョコチップが入った素朴なクッキー、薄く、上品な色づきのラングドシャと、3種類が並べられている。
「これは、志歩しほさんが焼いたのですか?」
 茉莉花まりか志歩しほの顔を見て、たずねる。
「はい、お嬢様。わたしが作らせていただきました。」
「まあ、本当ですか? うれしいです。」
 茉莉花まりかが笑顔を見せると、志歩しほはやや不安そうになる。
「実は、あまり作ったことのない種類のものでございまして、味見はしましたが、自信がないのです。ですが、お嬢様のお好みに合うかと思いましたので……。」
「そうなのですか? 見た目だけで、とてもおいしそうですよ。」
 茉莉花まりかはさっそく、絞り出しクッキーを口にする。さくさくと、もろくくずれ、はかない感触が、茉莉花まりかの心を優しく包み込む。
「やっぱり、おいしいわ。志歩しほさん、自信を持ってください。」
 茉莉花まりかがあらためて、志歩しほに笑顔を向ける。
「ありがとうございます。おほめにあずかり、光栄でございます。」
 志歩しほも笑顔になり、深々と頭を下げた。
「さすが志歩しほさんですね。わたしも見習いたいものです。ところでお嬢様、お茶のおかわりをおぎいたしましょうか?」
 礼諒なりあきが、志歩しほに感心した後、茉莉花まりかのお茶をごうと、急須のふたを開けた。
「そうね。お願いしようかしら……あ、そうだわ、ちょっと待って!」
 何かを思いついたように、楽しそうにする茉莉花まりか
礼諒なりあきさん、もう一つ湯飲みを持ってきて。お茶を淹れて、わたしの隣に座って下さらない? 一緒にクッキーを食べましょう。こんなにおいしいクッキー、一人で食べるなんて、もったいないわ。」
「え? ですが、お嬢様、わたしのような者が、お嬢様とご一緒させていただく、というわけにはいかないのですが……。」
 茉莉花まりかの唐突な提案に、困惑する礼諒なりあき茉莉花まりかは問題ない、という態度で、言い訳・・・をする。
「かまわないわ。主人に言われたら、隣で一緒に食べるのも、執事の仕事、ということにすればいいのよ。責任はすべて、わたしが取るわ。」
「ですが……。」
「それに、せっかく礼諒なりあきさんが、お屋敷に戻ってくれたのよ。これは、わたしからのささやかなお祝い。受け取って下さらない?」
 茉莉花まりかはどうしても、礼諒なりあきに選択の余地を与えたくないのか、ひたすら笑顔で、傍目には、まるで礼諒なりあきにせまっているように見えた。礼諒なりあきも、言葉では断るものの、心の奥では、茉莉花まりかと一緒に食べることを望んでいるのだろう、少し顔が赤くなっているようだった。
 志歩しほが、横から確認する。
「お嬢様、お祝いなのに、わたしが焼いたクッキーでよろしいのですか?」
「もちろんですよ。志歩しほさんが焼いてくださったからこそ、いいのです。」
 茉莉花まりかは、自信にあふれた様子で答える。
「いつもそばで支えてくださっている、大切な志歩しほさんが焼いてくださったクッキーです。大切な礼諒なりあきさんと一緒に食べるには、ぴったりです。」
 幸せそうな茉莉花まりかと、志歩しほのやり取りを見て、礼諒なりあきはほっとする。いつしか心はほぐれ、茉莉花まりか言い訳・・・を――茉莉花まりかの思いを受け取ろう、と決意を固めた。
「お嬢様、では、湯飲みを持ってまいります。お茶をおぎしますので、一緒にいただきましょう。」
 礼諒なりあきはいったん、湯飲みを取りに出た。
 戻ってきてお茶を淹れ、茉莉花まりかの隣に座る。畏れ多い気持ちになりながらも、茉莉花まりかにうながされ、クッキーを次々と口にする。茉莉花まりかはその様子を、楽しそうに見ていた。
 志歩しほが焼いたクッキー、そして礼諒なりあきが淹れたお茶の、美しい緑色と、心を落ち着かせる香り。茉莉花まりかはこの世の喜びを、しっかりと味わっていた。

*

 6年ほどの時が流れた。
 曇りがちなその日、格調高いホテルの結婚式場で、何人もが慌ただしく動き回っている。
 式場の外には、「一宮いちのみや家・上月こうづき家 御結婚式」と書かれた看板が設置されていた。
 新郎新婦や親族、それに使用人たちのための控え室は、一宮いちのみや家・上月こうづき家それぞれと、両家合同用の、広めの部屋とが用意されている。準備でざわついている、一宮いちのみや家用の控え室。ふと、ドアを強めにノックする音が響いた。
 志歩しほが、ゆっくりとドアを開ける。礼諒なりあきが立っていた。
「あ、礼諒なりあきさんですか。お嬢様のお着替えは終わりましたので、どうぞお入りください。」
 控え室には、志歩しほ桜子さくらこ、式場の女性スタッフたちがいて、茉莉花まりかを着替えさせたり、話し相手になって、茉莉花まりかの緊張をほぐそうとしたりしていた。今はそれが終わり、一段落したところのようだった。
 茉莉花まりかは、控え室の真ん中ほどにある、小さな白いソファに座り、ウエディングドレスに身を包んでいる。緊張のためか、やや沈んだような顔をしていたが、部屋に入ってきた礼諒なりあきを見るなり、ぱっと花が咲いたように、顔も、まわりの空気も、一気に明るくなった。
「あ、礼諒なりあきさん、お疲れ様。」
「恐れ入ります、お嬢様。」
 礼諒なりあき茉莉花まりかのそばまで、一歩一歩、踏みしめるように進んだ。
礼諒なりあきさんのおかげで、いいホテルで結婚式と披露宴をすることができたわ。本当にありがとう。」
「いえ、そんな、もったいないお言葉でございます。」
 礼諒なりあきに微笑みかける茉莉花まりかと、恐縮するように頭を下げる礼諒なりあき
「だって、礼諒なりあきさんがここで働いてくださっているおかげで、このホテルに決まったようなものよ。とても立派だし、きれいで、いいわね。」
 茉莉花まりかもまた、礼諒なりあきに頭を下げた。
 大学卒業後、礼諒なりあき一宮いちのみや家の副執事となった。だが、よりよいサービスについて追求したい、と、週に3日、ホテルで働き、ほかの3日は一宮いちのみや家で副執事の仕事を、残りの1日は休暇、という日々を過ごしている。茉莉花まりか礼諒なりあきの思いをできるだけ叶えたいと、礼諒なりあきがホテル就職の相談にきたとき、すぐに賛成した。その後重元しげもとの紹介で、週3日の勤務が可能なホテルの試験や面接を受け、採用されたところで働いている。いずれ、茉莉花まりかが当主になるときまでに、やめはするだろうが、少なくとも今は、良くも悪くも、新鮮な思いで、毎回のホテルの仕事をこなしていた。一宮いちのみや家の副執事として、茉莉花まりかにお茶を出すとき、一宮いちのみや家の仕事がいかに、まるで「天国」なのか、茉莉花まりかがいかに、まるで慈悲深い「神」のような存在であるかということを、ときどきこぼすのだった。
 いっぽう茉莉花まりかは、大学を首席で卒業した。卒業してそれほど経たないうちに、拓真たくまとの婚約を正式に発表した。今は一般の会社で、従業員として仕事をしている。重元しげもと桜子さくらこの、というより一宮いちのみや家の方針で、若いうちは下積みのような経験も積むことになっており、そうしていた。茉莉花まりかにとっては、学生時代に興味がわいたことに関する仕事をすることになり、まるで水を得た魚のようであった。年数はある程度限定されているものの、自分で選んだ仕事をし、喜びも苦しさも味わっている。
「おきれいです、お嬢様。」
 ふと、礼諒なりあきが恥ずかしそうに言う。
「皆さん、そう言うわ。でも、礼諒なりあきさんに言われると、なんだか特別な言葉に聞こえるわね。」
 茉莉花まりかも頬を染め、礼諒なりあきに返す。
 高級な朱子織しゅすおりの布と、繊細なレースをふんだんに使った、袖つきの白いドレス。品良くまとめてアップスタイルにした、赤みがかった髪を引き立てる、華やかなパールのティアラと、薄く透け感のある白いベールは、茉莉花まりかがこの世でいちばん魅力的であることを、証明するかのようだった。
「ねえ、礼諒なりあきさん。」
 ふいに、茉莉花まりか礼諒なりあきの目を見つめて、不安そうに言う。
礼諒なりあきさんも、好きな人ができたら、結婚していいのよ? 執事といったって、自分の人生もあるのだし、恋愛も結婚も、自由なのだから……。」
 だが礼諒なりあきは、にこやかな笑顔で、茉莉花まりかの言葉を、即座に否定した。
「いいえお嬢様、お嬢様が、家のためのご結婚をお受け入れなさったのに、わたしだけ、自由恋愛で好きに結婚するわけにはまいりません。ずっと、この人生をお嬢様のためだけに、お捧げする所存でございます。」
礼諒なりあきさんは、それでいいの?」
「もちろんでございます。わたしは自分の意志で、お嬢様のおそばにお仕え申し上げているのですから。お嬢様、どうかこれからも、わたしをおそばに置いてくださいませ。」
 やや離れたところから、志歩しほが、焦ったような顔で、茉莉花まりか礼諒なりあきを見ている。
 そのとき、重元しげもとが、吉川よしかわと一緒に、控え室に入ってきた。茉莉花まりかを見て、
茉莉花まりか、立派になったな。拓真たくまくんと、よき夫婦になり、よき家庭を築いていきなさい。そして、一宮いちのみや家の未来を作っていってほしい。」
と、厳格な態度で言った。
「ええ、わかったわ、お父様。」
 茉莉花まりかは座ったまま、深くうなずいた。
 その後、重元しげもと桜子さくらこのところへ行き、座って二人で話していた。と思うと、立ち上がり、茉莉花まりかに声をかけた。
「では茉莉花まりか、わたしたちはそろそろ、会場へ行くよ。拓真たくまくんと一緒に、しっかりした姿を見せてくれ。」
「きれいなウエディングドレス姿、自信を持って、胸を張ってね。」
「ありがとう、お父様、お母様。」
 重元しげもと桜子さくらこ、そして吉川よしかわが、控え室を出た。両親が部屋からいなくなり、茉莉花まりかはふいに、不安に襲われる。だが、家同士の結びつきという形を取っていたとしても、結婚するということは、夫婦二人で、しっかりと立って歩くこと。拓真たくまとの入場はその第一歩なのだと、自分に言い聞かせた。
 少し経って、礼諒なりあきが、
「お嬢様、そろそろお時間のようです。移動しましょう。」
と、茉莉花まりかに次の行動を知らせる。
 礼諒なりあき志歩しほに付き添われ、両家合同の控え室に行くと、すでに拓真たくまが待っていた。拓真たくまもまた、付き人に付き添われ、そわそわとした落ち着かない様子で、入場を待っている。
上月こうづきさん、お待たせ。」
 茉莉花まりか拓真たくまもとへ行き、微笑みかける。
茉莉花まりかさん、いよいよだね。緊張するけれど、入場、がんばろう。」
「ええ、よろしくね。」
 やや離れた場所から、礼諒なりあきが寂しげな様子で、二人を見守っている。茉莉花まりか礼諒なりあきの視線に気づき、振り返って礼諒なりあきに、切なさを含んだ笑みを見せた。
 礼諒なりあきは深く息を吸い込むと、やや大きな声で言った。
「お嬢様、いえ……これからは茉莉花まりか様、とお呼びしなければなりませんね。茉莉花まりか様、帰ったら、またごゆっくり、お話しさせていただきたく存じます。」
「呼ばれ方が変わるなんて、なんだか寂しいわね。」
 茉莉花まりかは笑顔をしずめ、口角を下げる。
「なんとお呼びするか、それが変わりましても、茉莉花まりか様にお仕えし、お尽くしすることには、いっさい変わりはございません。これからもずっと、お支え申し上げます。ですからどうか、笑顔をお見せくださいませ。笑顔こそ、茉莉花まりか様をもっとも素晴らしく見せるものなのですから。」
 礼諒なりあきは右手を自分の胸の前に置くと、深々と頭を下げた。
 そうしているうちに、式場の係員が、
一宮いちのみや様、上月こうづき様、もうすぐ入場のお時間です。」
と、茉莉花まりか拓真たくまに説明する。茉莉花まりか礼諒なりあきのほうを見て、軽く手を振った。
 やがて、式場のドアが開き、茉莉花まりか拓真たくまは入場していく。二人の後ろ姿を見ながら、礼諒なりあきは、
「行ってらっしゃいませ、茉莉花まりか様。」
と、小さくつぶやいた。

* * *

 晴れ渡る空の下、一宮いちのみや家の庭では、春から初夏にかけての花が、美しく咲き誇っている。庭師が植え、丁寧に育てられている花たちは、それぞれに精一杯、命を輝かせている。塗り替えられてからまだ日が浅い、淡いミントグリーンの板張りの壁に、焦げ茶色の鎧戸よろいど。どっしりとしたたたずまいは、屋敷に住む者たちを優しく包み込んでいるかのよう。みずみずしい草の香りのする、心地よく、さわやかな風が吹いている。
 ふと、屋敷の玄関のドアが開き、中から何人かが出てくる。
「じゃあ、打ち合わせをよろしくね、上月こうづきさん。」
「まかせてよ。」
「本当は、当主であるわたしが行かないといけないのに、上月こうづきさん一人で行かせるなんて、申し訳ないわね。」
 玄関のあたりには、拓真たくまと、仕事の秘書二人が、今から出かけようとしていた。茉莉花まりか拓真たくまを見送っている。後ろには、志歩しほが控えていた。
「気にすることはないよ。茉莉花まりかさんは、急ぎの仕事があるんだろう? 今日はそちらに集中してほしいんだ。僕は今日、当主の夫としての役目を果たすだけだよ。」
「ありがとう。わたしも近いうちに、当主として、きちんとごあいさつに伺うわ。ところで、今日は、ご夕食までに帰るのよね?」
「ああ、その予定だよ。では、行ってまいります。」
 拓真たくまは外出のあいさつを茉莉花まりかにすると、秘書二人とともに、車に乗って出かけた。
 ドアが閉まらないうちに、今度は中学生くらいの少女と少年――茉莉花まりか拓真たくまに似た――が、玄関から出てくる。身長は、二人とも茉莉花まりかとあまり変わらない。よそ行きのような、上質さの感じられる服を着ている。
「ねえ、お母様、一緒にお出かけしましょう。」
 少女が茉莉花まりかに声をかける。少年も、茉莉花まりかと一緒にいたそうな様子を見せている。だが茉莉花まりかは申し訳なさそうに、二人の誘いを断った。
「ごめんね、鈴蘭すずらんちゃん、哲泉てっせんくん。今日はどうしても、笹原ささはらと一緒に、しなければならない仕事があるの。だから志歩しほと一緒に、お出かけしてくれるかしら?」
「わかりました、お母様。」
 少女――鈴蘭すずらんが残念そうに返事をする。
「本当にごめんね。でも、なるべく早く終わらせて、夕食は一緒にとるようにするわ。そのときに、今日のできごとを話してくれるとうれしいわ。」
 茉莉花まりかはなだめるように、鈴蘭すずらんに言った。鈴蘭すずらんの顔に、笑顔が戻ってきたようだった。茉莉花まりかは今度は志歩しほのほうを向いて、二人の世話を頼んだ。
「そんなわけで、志歩しほさん、鈴蘭すずらんちゃんと哲泉てっせんくんをよろしくお願いします。」
「かしこまりました、ご当主。」
 先ほどから、茉莉花まりかと子どもたちのやり取りを聞いていた志歩しほは、笑顔で承諾した。
「さあ、鈴蘭すずらんお嬢様、哲泉てっせん坊ちゃま、お出かけしましょう。」
 車で出かけるため、志歩しほが二人を車のほうへと連れていく。
「僕は、志歩しほさんとお出かけするのも楽しくて好きだな。ねえ、姉上。」
「確かに、そうかもしれないわ。志歩しほさんって、本当に優しくて、物知りなんだもの。」
 鈴蘭すずらん哲泉てっせんは、楽しそうに話しながら歩いていく。遠ざかる3人の背中を見ながら、茉莉花まりかは静かに手を振った。
 後ろから、静かな足音と、声がした。
「ご当主、ご準備が整いました。」
 やってきたのは、礼諒なりあきだった。
 礼諒なりあきは今、執事として、一宮いちのみや家の当主となった茉莉花まりかを支え、屋敷の管理もまかされている。的確な判断力と、あたたかい人柄で、茉莉花まりかはもちろんのこと、使用人たちからの信頼も厚い。「ずっと独身である」と知られると、新人の使用人には驚かれることもよくある。執事は結婚してはいけないのか、と。それくらい、人柄の良さを認められているようだった。
「ありがとう、笹原ささはら。では、さっそく始めましょうか。」
 茉莉花まりかは「当主の顔」で礼諒なりあきに答えると、執務室へと向かった。部屋に入ると、二人はさっそく、それぞれの席につき、仕事にとりかかり始めた。
 昼食もそこそこに、ほとんど会話もせずに仕事を進め、夕方前くらいの時間になった。茉莉花まりかが思わず、伸びをする。礼諒なりあきが、
茉莉花まりか様、そろそろご休憩いたしましょうか。」
と提案した。
「そうね。さすがに頭が疲れてきたわ。」
「では、お茶をお淹れしますね。それから、昨日、料理人が作ってくれたタルトがまだ残っていますので、そちらもお持ちします。」
「頼んだわ、礼諒なりあきさん。」
 礼諒なりあきは、二人分のお茶の道具とタルトを取りにいき、やがて執務室に戻ってきた。
 もう何度、茉莉花まりかのためにお茶を淹れたか、数え切れない礼諒なりあき。「慣れている」という言葉すら失礼に値するほど、まるで息をするように、茉莉花まりかのためにお茶を淹れる。美しい緑色と、立ち上るお茶の香り。茉莉花まりかはゆっくり、じっくりと、礼諒なりあきの淹れたお茶を、体中にみ渡らせる。
「やっぱり、礼諒なりあきさんの淹れたお茶は、本当においしいわね。これを飲めることが、とてもありがたいわ。」
 茉莉花まりかが満面の笑みで、礼諒なりあきに言う。礼諒なりあきは照れた様子で、
「そんな、もったいないお言葉でございます。」
と返した。
「ところで礼諒なりあきさん、せっかくの休憩なのに、お仕事のお話をするけれど、いいかしら?」
「なんでございましょう?」
「この前も少し言ったけれど、執事見習いの話よ。鈴蘭すずらんちゃんも、この前15歳になったから、子どもたちのための、見習いの執事を選ばなければいけないわ。」
 茉莉花まりかは困っているような顔になった。
礼諒なりあきさん、わたし、どういう基準で選べばいいのか、いまいち自信がないの。お父様やお母様、吉川よしかわさんは、どうやって礼諒なりあきさんを選んだのかしら? 今度、お父様たちに相談してみるつもりだけれど、もうご隠居だし、いつまでも頼るのはよくないかしら……?」
 途方に暮れているような茉莉花まりかの気持ちに寄り添うように、礼諒なりあきは優しく答える。
「わたしといたしましては、先代ご当主にご相談されるというのも、かまわないと存じます。ご隠居後は、必要に応じてサポートに回るというのが、一宮いちのみや家のしきたりでもあるようですし。まずは、拓真たくま様にご相談なさってみませんか?」
「そうね、まずは上月こうづきさんからよね……。」
 茉莉花まりかはどこか不安を残しつつも、気持ちを切り替えに向かっているようだった。
茉莉花まりか様、どうか自信をお持ちくださいませ。茉莉花まりか様なら、必ずや、鈴蘭すずらんお嬢様と哲泉てっせん坊ちゃまにふさわしい執事見習いを、お選びになることができますよ。わたしもお力をお尽くしいたします。」
 礼諒なりあきが、真剣な表情で、茉莉花まりかを励まそうとする。
「ありがとう、礼諒なりあきさん。頼りにしているわ。」
 茉莉花まりか礼諒なりあきの誠意を、しっかりと受け取った。
 茉莉花まりかはいつも、思っている。礼諒なりあきと話すと、心が休まり、勇気づけられる、と。重元しげもとに、「わきまえる」と約束した通り、あれ以来、「個人的な関係」を疑われるようなことは、いっさいしていないつもりだ。主人と使用人の立場は、きっちりと守っている。それでも、心に灯るかすかな想いは、いつまでも消えることはない。決して口には出せないけれど――。
 そしてまた、決して口にはしないけれど、礼諒なりあきの目の奥深くからも、自分と同じような、淡くも確かな想いを、日々感じ取るのだった。
 もし、礼諒なりあきと結婚できていたなら。ときどきよぎる、はかない夢のような考え。茉莉花まりかはすぐに思い直す。自分と礼諒なりあきにとっては、主人と執事という関係こそが、最善の道なのだと。
 休憩を楽しみながら、いつしか、茉莉花まりか礼諒なりあきの会話はどんどんと横道にそれていた。お茶もタルトも、すっかりなくなっていた。ふと時計を見ると、かなりの時間が経っている。
礼諒なりあきさん、そろそろ仕事を再開しましょうか。」
 休憩するまでは、黙々と進めていたおかげで、大半の仕事は終わらせることができていた。そろそろ、最終段階といったところだろう。
「かしこまりました。では、お茶を片づけてまいります。」
 礼諒なりあきが席を立つ。少しだけ遅れて、茉莉花まりかも席を立ち、湯飲みを手にする。
茉莉花まりか様、片づけはすべてわたしがいたしますので、このお部屋でお待ちください。」
 片づけようとした茉莉花まりかを、礼諒なりあきは慌てて制止しようとする。だが茉莉花まりかはかまわず、穏やかな顔で言った。
「ごめんなさい、礼諒なりあきさん。今日はなぜか、自分で片づけたい気分なの。どうか、わたしにも一緒に、片づけさせてくださらないかしら?」
 礼諒なりあきはふっと息を吐き、優しい目をしながら、やや口角を上げて答えた。
茉莉花まりか様らしいですね。では、お願いいたしましょうか。」
「ありがとう。それでこそ、礼諒なりあきさんね。」
 茉莉花まりかは満面の笑みを、礼諒なりあきに向けた。
 礼諒なりあきが、執務室のドアをいったん開け、机まで戻った。茉莉花まりか礼諒なりあき、二人で一緒に、お茶の道具やお菓子の皿、お盆を持って、執務室を出た。

(おわり)


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