ひみつの絵筆

 あるところに、暁生あきおという、売れない画家がいました。20代後半くらいの、若い画家でした。
 暁生は小さな古いアパートの小さな部屋で、一人暮らしをしていました。一つしかない部屋の一角をアトリエにして、ひたすら絵を描くのです。
 絵を描く以外にできることも、興味のあることも特になかったため、画家をするしかありませんでした。ですが暁生は、画家ではない人たちに比べれば絵が描けるものの、画家としてはあまり、うまいとか、人をひきつけるような何かがある、というわけではありませんでした。そのためか、年に2枚も売れれば、とても喜ばしいことなのでした。
 売れない事実に打ちのめされつつも、絵を描かなければ生きていけないため、もはや生活のためだけに絵を描いているようなものでした。少しでも売れようと、売れそうなモチーフに手を出してみたりもしました。でも結局、反応が悪い、というより、ないのです。別の画家が、自分と同じモチーフで描いた絵が売れているのを見ると、心の底から、名前をつけてはいけないような苦しさがこみ上げてくるのがわかりました。
 暁生は本を読むのも好きでした。本当ならば、本屋さんで新しい本を好きなだけ買い、手元に置いて、いつでも好きなときに読みたい、と思っていました。でも今の暁生には、それができませんでした。ですから図書館によく行っていました。図書館の職員さんだけでなく、よく図書館に来る利用者の人とも、顔見知りになるどころか、話がはずむくらいでした。
 ある日、暁生が新しい本を借りようとすると、いつも会話をする職員さんが、貸出の受付係でした。
「暁生さんは、本当に勉強熱心ですね。こんな難しそうな本、わたしはきっと、まったく頭に入らないです。」
 職員さんが、感心したように言います。貸出の本の一番上は、哲学書のようでした。
「いえ、ぼくも、1割もわかっていないですよ。ただ、少しでも、絵を描くのに、何かしらいい影響が出るかも、と思っているのです。」
 暁生はたんたんと言いました。職員さんがふと、暁生の顔を見て、心配そうな顔をします。
「暁生さん、顔色が悪いみたいですね。」
「そうですか? いつも通りですよ。」
 その言葉通り、暁生はいつも、暗い顔をしていました。もともと体格に恵まれ、おそらく10人中7人は、顔立ちが整っていると思うであろう暁生は、本来なら、好青年という印象を、まわりに与えることでしょう。ですが、全身から漂う元気のなさが、暁生の良さを台無しにしてしまうのです。職員さんたちも、図書館の利用者仲間も、ひそかに、もったいないと感じているようでした。
 職員さんは少し間を置いて、ふたたび暁生に話しました。
「でもやっぱり、暁生さんのお体が心配です。もしよかったら、今度、暁生さんを誘ってお食事しよう、と、仕事仲間と話しているのですが。」
「いえ、お気持ちはありがたいのですが、そのようなことは辞退させていただきたいのです。」
 暁生はさっと会話を終わらせると、図書館をあとにしました。
 その後も、暁生はひたすら絵を描き、気が向けば図書館に行き、たまに少しだけアルバイトもしながら、日々を送っていました。暁生は自分の絵の実力を、自分でよくわかっていました。ですからいつも、絵が上手くなる方法はないか、考えていました。図書館でもよく、そのようなことが書いてありそうな本を探していました。しかしたいていの場合、本を読んでも、人に聞いても、「たくさん描く」「よく観察する」といった、至極当たり前ではありますが、とても抽象的な答えしか出てきません。暁生はつい、手っ取り早く上達する方法がどこかにないものか、と、血眼になってしまうのでした。
 ある日、いつものように図書館で本を見ていると、1冊の本が目にとまりました。本格的な発明の本でした。思わず興味をひかれ、その本だけを大急ぎで借り、家に帰って読みます。
 家では、特定のページを、何度も繰り返し読んでいました。暁生は何か、ひらめいたようでした。ページの内容を紙に写そうとして鉛筆をとるものの、何も書かずに鉛筆を置きました。
「いや、紙に書き写すだなんて、もったいない。この本だけは、どうしても手元に置いておきたい。」
 暁生は返却期限よりもずっと早く本を返すと、その足で本屋さんへと向かい、同じ本を探しました。さいわい、出版されてからあまり経っていないようだったので、すぐに見つかり、買うことができたのでした。
 本を見ながら、暁生は何かを作り始めました。画家だというのに、ろくに絵の練習もせず、作品も作らず、ただ、「発明」に夢中になっていました。寝る間も惜しみ、食事さえも忘れながら、ひたすら没頭していました。
 ときどき、思い出したように、それとも息抜きにでしょうか、少し絵を描くこともありました。ですが少し描くとすぐにまた、「発明」に戻ってしまうのでした。暁生はだれかに絵をたのまれて描いている、というわけではなかったので、それで問題ないようでした。
 気がつくと、1年が経っていました。
「よし、完成したぞ!」
 暁生は嬉しそうに、小さな部屋の片すみで叫びました。
 暁生がいつも使っている机の上には、ぴかぴかの絵筆がありました。見た目は、ふつうの画材店で売られている、少し高級な絵筆に見えました。
「これさえあればきっと、売れる絵が描けるはずだ。なんたって、まほうの絵筆だからな。」
 暁生はひとりごとをつぶやきます。
 暁生が作ったのは、「思い通りに絵が描ける絵筆」でした。外からは、ほかの絵筆と区別がつきませんが、中には特殊なチップがうめこまれていました。描く者の頭の中のイメージを、手から読み取り、自由自在に絵を描けるよう、プログラムされているのです。
「プログラミングなんて、ほとんどやったことがないからなあ、大変だった。でも、意外とできるものだな。」
 暁生はこの絵筆作りの多くを、プログラミングに費やしました。例の発明の本には、高度なプログラミングもいくつも載っているのですが、暁生が求めているそのものは、載っていませんでした。そのため、自分で考えるよりほかはなかったのです。
「さっそく、この『ひみつの絵筆』で絵を描いてみよう。」
 暁生は練習用のスケッチブックを取り出すと、ためしに、今座っている、作業机の絵を描いてみました。
「ひさびさに、まともに絵を描いたし、こんなものだろうな。」
 小さなスケッチブックの中に描き上がった机の絵は、暁生が今までに描いていたのと変わらない雰囲気の――つまり、あまりうまいとはいえない――絵でした。ひみつの絵筆を使ったのになぜ、と思うでしょうが、当たり前のことでした。なぜなら、暁生はわざと、すぐにはうまくならないよう、プログラミングしたのです。魅力的な絵を描きたい、でもいきなり変わるのではなく、何枚か描くことで、絵筆を自分になじませながら、上達していきたい。暁生の、画家としての、ちょっとしたこだわりから、思いついたのでした。
「1枚目は逆に、このほうがいいんだ。次のは、確実にうまくなるからな。」
 今日はもう夜も遅いうえ、発明と絵描きに全力をつくした暁生は、少し疲れを感じていたので、寝ることにしました。でも暁生は、可能ならば、寝ないで2枚目を描きたくてたまらないのでした。
 翌朝、手短に朝食をすませた暁生は、ひみつの絵筆を使い、昨日と同じスケッチブックに、同じ机を、角度を少し変えて描いてみました。
 するとどうでしょう。あきらかに、昨日の1枚目よりも、絵としての輝きを放っているように見えます。木目の質感、繊細な描き込み、あざやかな色遣い、そして机の存在感。まるで、今にも紙から抜け出して、絵を見ている人の作業を土台から支えてくれそうな、頼もしさがあるのです。
「おお、すごい。さすがひみつの絵筆だ!」
 暁生は小さな部屋で一人、思わず叫びました。
 調子づいてきた暁生は、続けて3枚目を描きました。今度は外に出て、自分のアパートを描いてみました。
「すごい! 安アパートが、高級アパートに見えるぞ。空と建物のコントラストもいいし、木も建物を引き立てている。」
 完成した絵を見ながら、自分が描いたとは思えないような、でも確かに自分で描いた――ひみつの絵筆を使って、ですが――絵のできばえに、興奮が止まらないのでした。
 3枚目を描き終わった後は、いったん休憩、ということで、いつもの図書館に行きました。職員さんや利用者仲間から、
「暁生さん、なにかいいことがあったのですか。」
と、つぎつぎにたずねられました。暁生は、
「いえ、ちょっとしたことですよ。」
と、あいまいに答えました。
 翌日、4枚目を描いてみると、あまりぱっとしない仕上がりになってしまいました。今度は、暁生の部屋のある一点から見た風景を描いてみたのですが、空間として、見た目にゆがみのようなものがあるのです。それも、味があるだとか、短所を長所に逆転させられるようなものではなく、ただただ、違和感としか言いようのないものでした。色遣いも、気持ちよくないくすんだ色に、はみ出し、不自然なにじみやぼかし、と、失敗としか呼べないものでした。
「うわあ、なんなんだ、これは。」
 暁生は頭をかかえてしまいました。そして昼間からふとんに入り、しばらく考え込んでしまいました。
 ですが夜になって、あることに気づきました。
「いや、ひみつの絵筆はこうプログラミングしたんだから、ちゃんと動作しているってことなんだ。」
 つまり、暁生のこだわり通り、実際に絵が上達する様子をきちんと再現している、ということでした。
 その証拠に、翌日に5枚目を描いてみたところ、また2枚目くらいの時のような、美しい仕上がりになりました。
「よかった。ちゃんと、ひみつの絵筆を信じないといけないな。」
 暁生はほっと胸をなでおろし、6枚目に向けて、意欲を取り戻しました。
 ですが6枚目、7枚目、8枚目と、伸び悩んでしまいました。確かに、ひみつの絵筆を使う前よりはいいのです。自分でも、なかなかの出来だとは思うものの、何かが足りないような気がするのでした。
 それでもめげずに9枚目に挑戦したところ、8枚目までとは見違えるようになりました。
「おお、そうか。上達は階段状、ということなんだ。」
 暁生は納得し、また10枚目へと向かっていきました。
 こうして1か月ほど、暁生はひみつの絵筆を使い、自分になじませる練習をしました。思うように上達しなかったり、かと思えばいきなり、自分以上だと思える絵ができたり。うまく、魅力的に描くことが目的でしたが、だんだんそれよりも、ただ描くのが楽しい、いかに自分の中のものを紙に表すか、という部分を考えるようになってきたのです。

 その日の朝、目覚めた瞬間に、ひみつの絵筆が自分になじんだような、すとんとした感覚が、体中に広がりました。暁生はそろそろ、売るための絵を描いてもいいころだろう、とふと思い立ちました。
「でも、何を描こうか。」
 朝食を摂り、片付けた後、部屋の掃除をして――暁生はひらめきました。
「そうだ、あそこに行こう。」
 掃除をすませた後、出かける準備をして、暁生は歩いて出かけました。画材を入れたかばんも、もちろんひみつの絵筆も、一緒でした。
 春のおだやかな陽気が、暁生の心をはずませます。このままどこまでも行ってみたい気分でした。
「こんな平和な春の日を、この空気ごと、絵に閉じ込めたいなあ。きっと、ひみつの絵筆があれば、できるだろう。」
 暁生はときどき、ひとりごとをつぶやいたり、自分の上から足もとまで、あらゆる木や草花たちに話しかけながら、目的地へと向かっていきました。
 やがて暁生は、小さな公園へと入っていきました。公園の小ささに似合う、かれんな桜の木の前に場所を取ると、かばんから画材を取り出し、絵を描き始めました。
 暁生は鉛筆でざっとあたりを取った後、ひみつの絵筆に持ち替え、絵の具をつけて、紙の上に色を置き始めました。さらさらと心地よく、筆が走ります。まるで、暁生の思いをくみ取って、絵筆が勝手に動いてくれているかのようでした。
 暁生は何日か同じ場所に行き、絵を完成させました。完成した絵は、暁生自身も初めて目にする、この世のものとは思えないような、素晴らしい絵でした。
「自分でも感動してしまうなあ。」
 暁生は何度も、自分の絵をじっくりとながめました。売るために描いたのに、売るのがもったいなくなってしまったほどでした。
「いや、何を考えているんだ、おれは。ひとりじめするほうが、よほどもったいない。おれはこの場所を、ほかの人にも紹介したいんだ。」
 暁生は気を取り直すと、絵を額装し、いつも絵を持っていく画商のところへと、出かけていきました。
 画商のお店に着くと、ちょうど女性のお客さんが一人、絵を見にきていました。女性は暁生の様子をしばらくうかがっていましたが、暁生の絵を見たがっているようでした。
 画商は、暁生の絵をお客さんに見せました。
 お客さんは、感心したように、だまったまま、絵をゆっくりとながめています。何か考えているようでした。お客さんの口からどんな言葉が出てくるか想像すると、暁生の胸は、ぐっと締めつけられるようでした。
 しばらくすると、お客さんが暁生に向かって質問しました。
「画家さん、この絵、もしかして、あの公園ですか?」
 お客さんは、暁生が絵を描いた公園の名前を言いました。
「そうです。おわかりいただけたようで、光栄に存じます。」
 暁生はうれしさをにじませて、答えます。お客さんも楽しそうに、暁生に返しました。
「やっぱり。この桜の木や、まわりの風景が、いかにもこの公園らしさを醸し出していますものね。わたし、この公園が大好きなんです。子どものころからよく、遊びに行っていて。」
「ぼくも、お気に入りの場所なんですよ。」
「まあ、だからきっと、こんなに素敵な絵が描けるのね。あなたの絵は、この場所をなんて美しく、魅力的にえがいているのでしょう。わたしが知っているよりももっと、深いところまで表れていますね。ますます、あの公園が大好きになりそうです。この絵の素晴らしさは、言葉では尽くせません。」
 お客さんは、暁生の絵を、いたく気に入ったようで、その場ですぐ、買ってくれたのでした。しかも、暁生が思っているより、高い値段で。暁生はきつねにつままれたような気持ちになりましたが、今確かに、絵が売れた証拠を手にしています。
「暁生さん、新作が描けたら、ぜひまたお持ちくださいね。」
 画商はにこにことしながら、暁生を送り出しました。
 家に帰った暁生は、ひみつの絵筆を見つめながら、ひっそりとつぶやきました。
「すごいなあ、ひみつの絵筆。おかげで絵が売れたよ。ありがとう。」
 暁生は、今日の分のお金は画材の足しにしようと、引き出しの中に、そっとしまいました。その日の夕食はいつも通りの質素な内容でしたが、今まで食べたどんなごちそうよりも、おなかも心も満たしてくれたのでした。

 翌日以降も暁生は、売るための絵を描いていきました。もちろん必ず、ひみつの絵筆を使って。
 2枚目の絵も、1枚目の公園とは別の、暁生のお気に入りの場所を描きました。単に風景をなぞるだけでなく、目には見えない空気感や音、香り、温度、その場所に関係するすべてを込めるように、絵を見た人があたたかな気持ちになれるように、全力で絵に向かいました。ひみつの絵筆は、暁生の真剣な思いに、全力で応えてくれるのでした。すらすらと心地よく走る筆は、暁生の創作意欲を、ますますかき立てました。そうやって描いたからなのでしょうか、2枚目の絵も、暁生の予想よりも高値で売れたのです。
 つぎつぎと何枚も絵を描いていくうちに、暁生は風景画が好きだということが、だんだんとはっきりしてきました。お気に入りの風景、美しい風景を、自分だけでひとりじめしておくのはもったいない。一人でも多くの人に広めたい。その目的のために、暁生の中のすべてのものを、ひたすらしぼり出すのです。もちろんひみつの絵筆は、いつでも暁生の望みをかなえてくれました。
「本当に、ひみつの絵筆には助けられているなあ。おかげで、好きな絵を描いて、売れるようになってきたよ。」
 何枚、いえ何十枚と描いていると、そのうち失敗作としかいえないものも描き上がることがありました。ひみつの絵筆を使っているのになぜだろう、と、暁生はそのたびにふしぎに感じるのでした。でも、ひみつの絵筆を使い始めたころとは違い、もう落ち込んだりはしませんでした。あまりにうまくいきすぎるより、失敗することもありうるという、暁生自身のこだわった、どこか現実的なプログラミングによるものだということを、ちゃんと覚えたからなのでした。それに、たまには失敗するほうが、次にいい絵が描けたときの喜びも、倍増するのです。
 暁生の顔つきは、だんだん変わっていきました。相変わらず図書館通いをしている暁生、職員さんや利用者仲間に、
「暁生さん、最近すごく、いきいきしていますね。おかげさまでこちらまで元気になってきます。」
と、何度か言われました。職員さんや利用者仲間たちは、暁生の好青年ぶりに、色めき立っています。暁生は満面の笑みで、
「いやあ、絵がすごく売れるようになったからですよ。」
と答えました。
 その言葉通り、暁生の絵は、少しずつ売れるようになった、と思っていたら、あっという間に、飛ぶように売れるようになっていました。絵を売るのは主に、画商に任せていましたが、絵が売れるたびに、画商がとてもうれしそうに、お客さんにどんなに喜ばれたか語ることや、お客さんの多くが、ぜひ作者、つまり暁生と話したいと希望している、とのことで、都合がつく場合は、なるべく画商のお店に出向くようにしました。
 絵を買った人たちが、ほかの人たちにも広めてくれているようで、暁生の絵の売れ行きは、とどまるところを知りません。気軽に買いたい、大きな絵は飾るところがない、などの要望を取り入れ、ためしに絵はがきにしてみたところ、瞬時に完売しました。
 そのうち、暁生の画風がほしい、という声が増え、注文制作の絵を依頼されるようにもなってきました。暁生は注文制作の経験がなかったので、一瞬ためらいましたが、
「そうだ、ひみつの絵筆の力があれば、描けるだろう。」
と、引き受けることにしました。
 やはり、自分自身だけの表現ほどには気は進まなかったものの、画風を求められていることや、描くと必ず喜ばれることから、やる気や責任感も芽生え、余裕のあるときには依頼を受けるようになっていました。
 暁生は今や、超売れっ子画家でした。お金もどんどん入ってくるのでした。
 せっかくいただいたお金を使おうということで、暁生はまず、小さな一戸建てを買い、引っ越しました。念願の、複数の部屋がある家。一部屋をまるごと、アトリエにしました。今まで使っていた机に、新しい机も追加し、ひみつの絵筆の「特等席」も作って、のびのびと絵を描けるようにしました。
 暁生は絵を描くことと、本を読むくらいにしか興味がなかったので、お金を使うことといったら、画材に本、風景画を描きに出かけるための交通費、絵を売るさいにお客さんと話すときのためのスーツなどの服、あとは食費や、生活のためのお金がほとんどでした。憧れていた高級画材を買えることや、好きな本を好きなだけ買って、自分の手元に置いて好きなだけ読めることは、暁生の創作意欲をさらに増しました。ただ、図書館でしか出会えない本もあるからと、図書館通いも、今も続けているようでした。ときどき、図書館仲間をさそって、ごちそうすることもありました。
 好きなようにお金を使っても、まだ余ってしまうので、暁生は寄付をすることもありました。おもに、絵に関することや、絵の教育などが気になっているようでした。
 魅力的な絵を描きたい、その一心で作った、ひみつの絵筆。暁生に多くのものをもたらしてくれていました。ひみつの絵筆を使い始めてから、どんどんと絵が売れ出し、思ってもみなかった生活をするようになっていました。
 暁生は毎日、ひみつの絵筆をていねいにみがき、入念な手入れをして、大切に使っていました。以前使っていた、古い絵筆も捨てずに置いてありましたが、それらはいっさい使うことなく、ひみつの絵筆一本だけで絵を描いていました。この一本さえあれば、細かいところから大きなところまで、自由自在に描けるのでした。暁生は毎日、夢中で絵を描き続けました。
 そんな生活が続き、3年ほどが経っていました。

 ある日暁生は、いつものようにひみつの絵筆で絵を描きながら、ふとした不安が頭をよぎりました。
「おれはずっと、ひみつの絵筆で絵を描いてきたが、はたしてそれで本当にいいのだろうか。」
 一度その考えが始まると、どんどんと広がって、暁生の創作作業の邪魔をしてきます。
「おれのやっていることは、ずる・・ではないのか? こんなやり方で描いた絵にお金をもらったりして、いいのだろうか?」
 暁生は筆が止まってしまいました。今描いているものを完成させる気が失せてしまい、ふとんにもぐりこんでしまいました。そのまま、うんうんとうなりながら、一晩中考え込みました。
 その後何日かのあいだ、暁生は絵を描くことができませんでした。描きたいモチーフもあるし、気持ちだけはたっぷりとあるのに、ひみつの絵筆を持っても、なぜか1ミリも筆が走らないのです。
「いくらひみつの絵筆といえども、おれの気分が乗らないと、まったく描けないんだな。変なところにこだわった設計をしてしまったなあ。」
 自分が描きたい絵だけであればよかったのですが、依頼された絵もあり、描くのをまったくやめるというわけにはいきませんし、悩んでばかりもいられません。
 暁生は気分転換にと散歩に出かけ、ひみつの絵筆で、売るための1枚目の絵を描いた公園に行きました。
 まわりにだれもいないのを確認すると、暁生は深呼吸をし、かみしめるようにつぶやきました。
「気にすることはない。ひみつの絵筆を作ったのは、ほかでもない、おれ自身だ。描いている絵だって、おれの中から出てきたものだし、実際に筆を動かして描いている。完成した絵も、とても喜ばれているんだ。なんの問題もないはずだ。」
 家に帰った後、もうそのことは考えずに、ずっと、ひみつの絵筆で絵を描き続けました。ですが、完成した絵は、どこか納得のいかない雰囲気がありました。暁生はなぜなのかわかりませんでした。
 数日後のことです。以前、絵を依頼された相手のつながりで、暁生は雑誌のインタビューに答えることになりました。
 無名だった暁生が、今や超売れっ子、秘訣を聞きたい、ということでした。
 暁生はそんなに気が進みませんでしたが、気がついたらインタビューが終わっていました――ひみつの絵筆のことも、話してしまったのでした――。
 いえ、正確には、ひみつの絵筆そのものの仕組みを話したわけではありません。話の流れで、自分に合った道具を使う大切さについて話すことになってしまい、
「この絵筆を自作して、使うようになってから、より良い絵が描けるようになったのです。」
と言ってしまったのでした。まわりの人は、絵筆に興味津々でした。もちろん、ただの絵筆だと思っているわけですから、絵筆まで自作する芸術家のこだわり、と言った点で、興味をひかれたというだけでした。ですが暁生はずっと、絵筆の、ひいては自分のひみつが知れてしまわないか、胸が締めつけられるような思いでいたのでした。
 インタビューの浮き足立った雰囲気から抜け出て、冷静になった暁生は、二つの選択肢を思い浮かべました。いっそのこと、ひみつの絵筆のことを世間にすべて話して、無名絵描きに戻るか。ひみつの絵筆のことは、文字通り絶対にひみつにし続けて、この絵筆を使って、ずっと画家を続けるか。
 すぐに、暁生の答えは決まりました。もし絵筆のひみつが知られたら、また売れなくなるどころか、絵を描くことすらできなくなるかもしれません。絵を描くことくらいしかできない暁生には、考えられない話でした。ですから一生、絵筆のひみつを守り続け、せめて喜ばれる絵を描いていこう、と覚悟を決めました。
 ただ、これから先、絵筆が持つのか、心配になりました。暁生はまだまだ若く、先は長いのです。手入れをしながら使っているとはいえ、ひみつの絵筆は少しずつ、消耗してきています。絵筆が寿命をむかえれば、自分の画家生命どころか、人生そのものも終わりなのだろうか、と考えると、暁生はにわかにふるえてきました。
 もし絵筆が壊れたり、なくなったりしたらどうなるのだろう? 化けの皮がはがれる日がくるのだろうか? 考えたくもないことでした。
 そして実際に考えるひまもなく、絵の依頼や、自分の中の創作意欲が、次々と押し寄せてくるのでした。
 恐怖からのがれるように、暁生は夢中で絵を描き続けました。あまりの恐怖の大きさゆえなのでしょうか、ひみつの絵筆を使っているのに、どこか調子の出ない絵のように感じられたのでした。

 1か月ほどが経ち、その日は依頼された絵を描いていました。
 前日の続きを描こうと、机の前に座り、ひみつの絵筆を手にとったときでした。
 なんといきなり、ぼっきりと、ひみつの絵筆が折れてしまったのです。
「うわあ! なんてこった!」
 暁生は青ざめました。突然のことに、何も考えることができませんでした。絵のしめきりが迫っていることも、このときばかりは、頭の中から宇宙のかなたへ飛んでいってしまったのでした。
「ひみつの絵筆がないと、いい絵が描けないのに! 一巻いっかんの終わりだ!」
 暁生はこの世の終わりのように、ふらふらと歩き、ふとんに入ると、丸まってじっとしていました。
 丸一日ほどが経ち、暁生は急に思い立って、ふとんから出ました。
「なんで気づかなかったんだろう。ひみつの絵筆を直せばいいんだ。」
 暁生はあわてて、発明の本や、設計やプログラミングのメモを書いたノートを取り出しました。
「そうはいっても、どれくらいかかるかわからないな。絵はしめきりに間に合うだろうか。」
 時間との戦い、そう認識した暁生は、まずはどこがどうなっているのか調べ、効率よく直そう、と考えました。とはいえ機械やコンピューターの専門的な知識はない暁生、ひとつずつ、検証していきます。なぜ今自分はこんなことをしているのだろう、早く絵を描きたいのに、とときどき考えながら、作業開始から何時間が経ったでしょうか……。
「えっ? どういうことだ? うそだろ?」
 信じられない、というような調子で、暁生はにわかに、声を上げました。
「これが本当なら、おれは……。」
 暁生は急いで、スケッチブックと、しまっておいたふつうの絵筆を取り出すと、ためしに、今目の前にある、机の絵を描いてみました。
 描き上がった絵は、最近暁生が描いているのと同じ雰囲気の――つまり、ひみつの絵筆で描いたのと変わらないような仕上がりでした。売れそうで、喜ばれそうな絵だといえます。
「ふつうの絵筆でも、こういう絵が描けるということは……。やっぱり、そうなのか。おれのあの覚悟はなんだったんだ……。」
 暁生は拍子抜けしたように、床にへたりこみました。と思うと次の瞬間、笑い始めました。
「そうか、最初から、自分の心のままに描けばよかったんだな。どおりで、意外と失敗したり、調子が悪いと、納得いかない絵になったりするわけだ。おれは気づかないままずっと、自分の腕だけで絵を描いていたんだな。」
 暁生は何かがに落ちたようでした。
 暁生が発見したこと、それは、自分のプログラミングのミスでした。確かに、勉強のかいあって、暁生は自力で、「まほうの(いえ、プログラムの)力」で思った通りの絵を描ける絵筆を作ることができたのでした。でも、実はその効果は、1週間ほどしか続いていなかったようでした。暁生がどこかで数字を入れ間違えて、気づかないまま、もはやふつうの絵筆として、使っていたのです。
 つまり、最初の練習のころに描いた絵は、ひみつの絵筆の力でしたが、売った1枚目の絵の時点で、すでに、ひみつの絵筆のプログラミングに頼ってはいなかったのです。
「でもきっと、ひみつの絵筆はきっかけをくれたんだ。おれが絵を描くときに、何を大切にするかを気づくきっかけを、な。」
 暁生は、折れてしまったひみつの絵筆を、ていねいに紙に包むと、引き出しの奥にそっとしまいました。そしてあらためて、画材店にふつうの絵筆を買いに行き、依頼された絵は、ふつうの絵筆で完成させました。
 その後、暁生はひみつの絵筆を使うことはありませんでした。ずっと、ふつうの絵筆だけで、今まで通り、絵を描き続けました。
 心を込め、自分のすべてを込めた絵は、見る人を魅了し、喜ばれ、求められています。暁生は自分自身の手でそれらの絵を生み出していることに、絵描きとして、大きな幸せを感じているのでした。
 けれども、ひみつの絵筆は、暁生の心の支えとして、今も引き出しの奥で、静かに眠っていることでしょう。

(おわり)

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あとがき

お読みくださってありがとうございました!
このお話は、「売れない画家が、図書館で見つけた発明の本を元に、思い通りに絵を描ける絵筆(しかし変なところで現実的)を作って、絵筆の力で絵を描いて売れるようになったが、実は……」みたいなお話なのですが、伝わりましたでしょうか…?(?_?) 的確に書くのは難しいですね。いるのかどうかよくわからないエピソードがどんどん増えて、なかなか終わらなくて、書くのが大変でした(笑)。
この作品に限りませんが、頭の中で考えている時には、いい!最高!と思ったのに、いざ書くと、これ面白いんだろうか?とか、こんなオチでいいのだろうか?みたいになったのですが(毎度のことです)、あまりぐだぐだと考えすぎるのもあれなので、ひとまず完成させました(笑)。どこかで区切らないと、永遠に完成できませんからね(^_^;
もっとわくわくするような感じに書きたかったのですが、演出力不足なのでしょうかね…がんばります。理想は遠いですね。

全体的に夢のある感じにしたかったので、全体の流れやオチも含めて、こういう感じの内容になりました(^_^) 少しでも、夢のある世界を感じていただけたのなら幸いです。ファンタジー全開の、楽しい世界です♪
暁生さんの絵が売れるようになった理由、私なりに考えていて、これもファンタジーというか、現実ではなかなか、というところですが、そのあたり、自由に解釈していただければ幸いです♪

やっぱり、絵を描く人のお話はいいですね(^_^)
そして、このお話に、絵を描く方、絵以外の創作活動をなさっている方、その他のどんな方にも、少しでも何か感じていただけるものがありましたら、とても嬉しいです。

2019.4.4